説教「大胆、静かに聖霊働く」
民数記 11章24~30節
使徒言行録 2章1~21節
ヨハネ福音書 20章19~23節
聖霊降臨日(2023年5月28日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

主役はきょうから聖霊になりました。

多くの方がご存じのようにキリスト教が伝える神様は三位一体の神です。八百万の神ではなく三位一体の神様、これがまことの神の正体だという信仰です。いろんな宗教がいろんな神のイメージを伝えていますが、キリスト者は三位一体のイメージで神様をとらえています。第一に天地を創造し、私たちの命をも造られた天の父なる神様、第二番目にその独り子イエス・キリストとしての神様、そして三番目に聖霊なる神様です。この三者の神のイメージがひとつに統合されているわけです。聖書に描かれている神の姿を言葉で言い表すとすればこれしかない、というのが初代教会から今日まで伝えられている三位一体の神です。

三つの神様の御姿のなかで、私たちにとって最もイメージしにくいのが聖霊ではないでしょうか。つかみどころがないという印象があります。ところがそれでいて逆に、私たちにとって最も現実的で身近なのが聖霊なのです。

インマヌエル。このヘブライ語は、クリスマスの出来事で乙女マリアが天使ガブリエルのみ告げを受けたとき、神様の名前として届けられました。私たちと共にいる神という意味です。インマヌエルが神の名前として天使に紹介されているのです。名は体を表すといいますが、私たちと共にいるということ、これが神様の本性ということになるのです。私たちと共にいる、それが神が神であるということなのです。私たちから離れることなく、いつも私たちと関わるお方が三位一体の神なのです。このことは三位一体の神を理解するうえでとても大切な点です。

あくまでもイメージの話をしているのですが、インマヌエルの神ということを考えたとき、聖霊なる神様が私たちに最も身近な存在に見えてこないでしょうか。天地創造の神というとあまりにも遠い存在としてしか思い浮かんできません。イエス・キリストはというと、人の形をとった神様ですから具体的にイメージしやすいという点ではそのとおりなのですが、イエス・キリストは復活を遂げたあと、父なる神のもとへと戻って行ってしまいましたから、私たちにとって身近かといわれるとそうでもないなという感じです。

イエスは弟子たちにこう言い残しました。「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。」イエスが去れば、そのあとに弁護者がやってくる。弁護者とは聖霊のことです。あなたがたに聖霊がやってくる、これを主イエスが弟子たちに約束したのです。聖霊とは主イエスが去ったあと、私たちと共にいてくださるインマヌエルの神のことなのです。

このイエスが約束した聖霊の登場が事件として、大勢の人が集まっているところで大々的に起こったのがきょうの第二朗読です。ペンテコステというユダヤのお祭りのときにこれが起こったので、教会では聖霊降臨日のことをペンテコステと言います。毎年この日には使徒言行録2章のこの箇所のみことばを聞きます。

ただし聖霊の降臨が起こったのはこのときだけではありません。きょうのヨハネ福音書20章も聖霊降臨の出来事です。22節「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」イエスが「息を吹きかけた」のです。降りてくる「降臨」という表現がこの場面にピッタリ合うというわけではないですが、「聖霊を受けなさい」、弟子たちにそのとき聖霊が届けられたのです。

聖霊がいつどこで、どのように降臨するのか。その現象やイベント的な側面に私たちの関心はついつい向かうわけですが、それよりも大切な問いは、聖霊が私たちにとって何なのか、私たちに何をしてくれるのかということがもっと重要です。

イエスの言葉からそのことを見てみます。「聖霊を受けよ」と言って弟子たちに聖霊を吹きかけ、イエスは次にこう言いました、「だれの罪でも、あなたがたが許せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」罪の赦し、それが聖霊の働きとして示されています。聖霊が私たちの罪を赦すということです。

ガリラヤ地方に滞在していたある日、イエスは中風の人が担がれてきて足もとに置かれるとこう言いました、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される。」すると中風の男性は癒やされました。そのときそばにいたファリサイ派の人が、罪を赦すとイエスが言ったことに対して、これは神を冒涜していると言います。神にしかできない罪の赦しを人間イエスが言うなどとはもってのほかというわけです。罪を赦すというのは神の権威のもとに行われることなのです。罪の赦しはそもそも天の父のわざ、その働きがイエス・キリストに託されたのです。「あなたの罪は赦される」とイエスが宣言したのは、この権威が父なる神様からイエスに託されたからです。そして今、罪の赦しは、イエスから聖霊へと託されたのです。聖霊が私たちに何をしてくれるのか、この問いに対する答えがここにあります。最も大きな仕事として、罪の赦しです。言い方は自由です。神によって赦されたと言ってもいいし、イエス様が赦してくれたと言ってもいいし、聖霊が赦してくれたと言うこともできるのです。三位一体の神ですからそれが可能です。

私たちはいつも礼拝の冒頭で罪を告白し、罪の赦しを願い求めます。そして赦されて神様を礼拝します。このとき聖霊が働いているのです。罪を告白する私たちひとりひとりは、そのとき聖霊によって罪赦されるのです。父なる神に、子なる神イエスに、そして聖霊なる神によって赦されるのです。

罪の赦しというと放蕩息子のたとえ話を思い出さないでしょうか。あのたとえ話は父の赦しと子に対する豊かな愛を感動的に語ってくれるわけです。家に帰ってきた放蕩息子に父が駆け寄り、思いっきり抱きしめる。神様に罪を赦されるという体験は、あのように感動がともなうものだと受け止めることもできます。心を揺さぶられ、場合によっては涙があふれてくることが罪赦されることなのだと。そうした感動が伴ってこそ、赦された実感が伝わる。赦されるという体験は、確かに大きな喜びが伴いますが、大きな感動や喜びがなければ赦されていないということでもありません。神の赦しというのは、喜びの声が嗚咽となってあふれ出てこようと、冷静沈着に落ち着いて受け止めようと、私たちがどう受け止めようと、神の赦しは起こるのです。起こっているのです。「聖霊を受けなさい」、復活の主イエスがそう言って弟子たちに対して息を吹きかけたときがそうでした。それはペンテコステの日に起こったような劇的で聖霊なことではなかったのです。弟子たちは聖霊を静かにイエスから受けたのです。

ペンテコステの日に起こった出来事にも少し目を向けたいと思います。それはまさに人間の五感に働きかけました。激しい風の音が家中に鳴り響き、炎のような舌が次々と現れて、そこにいた人々の上に留まりました。次に彼らが異言を語り出したので、みんなあっけにとられたのでした。

この出来事をみて酔っ払ってるのかと思った人もいたようですがそうではなかったのです。ほかでもないペトロが、この出来事を解釈しました。聖霊が人々に降りたのだと彼は人々に説教したのです。あのペトロ、捕まるのを恐れてイエスを三度知らないと言ったペトロです。ペトロのこの説教がなかったら、この不思議な現象を聖霊の働きと結びつけることを誰か他に出来ただろうかと思ってしまいます。ペトロの解釈がなければ、これは聖霊と結びつけられることもなく、ひとつの不思議な出来事として終わっていたかもしれません。そういう意味で、ペトロの説教は大変画期的ですばらしいのです。ペトロの説教があったからこそ、こうして毎年聖霊降臨を神の出来事として礼拝で記念するようになったのです。イエスの復活をきっかけにペトロがかくも大胆に変わったこと、これもまた聖霊の働きといえます。

「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。」このイエスの言葉を今一度思い起こしましょう。ガリラヤとエルサレム、これまでこの二つの地方だけに限られていたイエスによって表れた神のみわざは、イエスが復活した後、聖霊の登場によって大きく広がっていったのです。キリスト教会はそうしたなか生まれたのです。そして聖霊は教会を通して、今も豊かに働いているのです。こうしてキリスト教会は、罪の赦しの救いを伝え続けるのです。