説教「プライド仮面をはずす」
マタイ14:13~21
聖霊降臨後第11主日(2014年8月24日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

 ここまでイエスのたとえ話からしばらく学んできました。福音書記者マタイは、イエスのたとえ話を13章にまとめました。立て続けにたとえ話をイエスがしたというわけではなく、マタイが編集して読みやすくまとめたのです。たとえ話が終わって14章からはがらっと変わり、領主ヘロデの話題となります。ヘロデ・アンティパスが洗礼者ヨハネの首をはねるという事件が、しかもなんとも残虐なやり方で執行されたという報告が載っています。

 イエスと洗礼者ヨハネ
 そしてきょうの福音書へとつながります。「これを聞くと」という言い方でつながっていますから、洗礼者ヨハネが首をはねられたという話を耳にして、イエスは次の行動に出たということです。洗礼者ヨハネはイエスに洗礼を授けた人です。そしてイエスともども神の救いを人々に呼びかけていた同労者です。その人が首をはねられたわけですから、イエスもうかうかしていられなくなったというわけです。

 現実世界と天の国
 ある注解書に書いてあったことですが、これを書いたマタイは、13章のたとえ話から14章にかけて、構成をとても深く考えてあるというのです。たとえ話でイエスが語ったのは天の国でした。天の国はたとえていうならこんな世界と語って、からし種とか毒麦とかの話をしました。こうしたたとえ話で描かれたのは、ふたつの世界を対比して示したからです。神の国と人間の国、あちらの世界とこちらの世界の対比です。わたしたち人間の現実世界と天国はこうも違うんだということを、イエスは人々に説いたのです。

 そして14章もそうだと注解書はいいます。まず領主ヘロデの残虐な話が出てきます。これはこちらの世界で起こっている現実です。こういう事件が現実だと思いたくないのですが、似たような話は今日でも実際あることはご存知のとおりです。そしてきょうのテキストをもう一方の世界、すなわち天の国の出来事としてここに載せているのです。イエスがごくわずかなパンと魚で五千人の人々の空腹を満たしたという奇跡を、神の国の出来事としてマタイは紹介しているのです。こうしてふたつを並べて書いて、こちらの国とあちらの国がこうも違うんだということをマタイは明らかにしてくれたのです。ともすると視野が狭くなってしまうわたしたちです。五千人を満腹に満たしたという出来事がテキストとなると、そこだけを深く掘り下げて考えてしまいがちですが、それだと木をみて森を見ずになります。これまでのたとえ話とのつながりを見ることによって、まったく新しい視点が与えられます。

 信じにくい現代社会
 出来事としてはなかなか信じがたい話です。五つのパンと二匹の魚で五千人を満腹にするなど絶対あり得ないことですから。もしもこれが聖書でなくて絵本の話なら、もしもこれがイエスではなくて別の人の出来事なら、これは作り話だろうと即座に私もいうでしょう。けれどもそうではありません。これは聖書に書いてあるイエス・キリストの出来事、そのことがこの物語を実際に起こった奇跡なんだと、私に語りかけてくるわけです。

 これは私が知る限りでは、起こり得ません。物理的にはあり得ないと堂々と言うことが出来ます。けれどもわたしたちが信仰の言葉を自由に交わすとき、あきらかにそれは物理的にことがらを語るのではないのです。物理的という制約を解かれたところで語ることができるのです。先週の続きでいうならば、1+1=1が成立するのが信仰のことがらなのです。

 なんとなくの数学
 6月に市ヶ谷を会場に「医療と宗教の会」講演会が開かれました。講演者は医学博士で理学博士の谷口俊一郎先生で、ルーテル松本教会の信徒です。「10代からのいのち学―あるがん研究者のつぶやき」という薄い本に書いてあったのですが、谷口先生は数学者の森毅さんの大ファンだそうで、数学について森先生の話を紹介していました。数学というのは厳密な論理の世界で、すべてが「こと」すなわち物理で展開し、妥協のまったくない世界です。なのに数学の森毅先生がこう言っていたそうです。「数学というのはなんとなくそうなんです」。この言葉が大きな解放感を与えてくれたと谷口先生は書いています。数学がなんとなくそうなる、というのは、それこそ信じられない気がしますが、1+1=1を成り立たせる可能性を匂わす言葉ではないでしょうか。物理的にはすべてのことがらを語り尽くせないということなのでしょう。そのように考えると、信仰の言葉で考えることで、イエスの奇跡をそのまま受け止めることができるようになるのです。信仰の言葉で語ることで、物理の言葉では語り尽くせないもっと大きな、新しい次元に、だれでも足を踏み入れることができるのです。

 プライドが邪魔をする
 小林稔という新約学者がいます。きょうの聖書箇所についてなんと書いているのか読んではいないのですが、新約聖書を文献として研究なさる方ですから、論理を崩すことはないでしょう。するとこういう奇跡は考えられないと結論づけるのではないかと思います。この人が人間のプライド、誇りについて書いていたことを読んだことがあります。聖霊についての議論になったとき、ある人からこう言われたそうです。「神の霊がおまえのなかで自由に働くのを、おまえのプライドが妨げている」。ここでいうプライドとは、カトリック信仰者としてのプライド、そして文献学という実証科学を扱う新約学者としてのプライドのことだと思います。だれにもこうした信仰者としてのプライドというのがあると思います。プロテスタント信者としての、あるいはルター派としてのプライドも同じです。小林さんは、最近になってこの言葉の意味がすこしわかってきたといいます。7年前に癌を患い手術をしたときの心境を書いていました。自分でも驚くほど心おだやかだったそうです。なぜ冷静でいられたかいろいろ考えたそうです。この期に及んで信仰者としてじたばたするのはみっともないという見栄があったから冷静でいられたのかもしれない、あるいは死んで無になっても地獄に行ってもかまわない、「入れてください」と神様の前で頭をさげたくない、そういう傲慢もあったかもしれないというのです。自分としては素のままで神の前に立ち、ありのままをさらけだしているつもりだったが、一種の誇り(プライド)によって神の前で格好をつけていたかもしれない。癌の手術を前にして冷静でいられた理由を、この文献学者はこう述べていました。冷静でいられたのは信仰があったからというより、神様の前で格好を付けていただけだったのではと、自分を分析したのです。そういう自分をみたとき、プライドが妨げているという人から指摘された言葉の意味を噛みしめたというのです。

 信仰者の解放感
 聖書を読むと、新約聖書のイエスのたとえもそうですし、旧約聖書の詩編にも、プライドをかなぐり捨てた人がなりふりかまわぬ姿をさらけだして神様に祈っている様子が出てきます。小林さんもそれにならって神の前にプライドを捨てて、最後のところでこんなふうに書いていました。「死んで存在しなくなると神を賛美できないのであれば、そしてあなたとの関わりを失うのであれば、どうか主よ、死後もあなたの中に生きさせてください」。「あなたの中に生きさせてください」、そう祈って締めくくっています。この祈りによって小林さんはプライドから解き放たれたのでしょう。この解放感は、谷口俊一郎先生が「なんとなくそうなんです」という数学者の言葉から得た大きな解放感に似たものがあります。

 信仰者にはこの解放感があります。自分の矜持、長年にわたり培ってきた誇り、プライド。信仰と関係あってもなくても、自分らしさの原点みたいなものがだれにもあります。そして人はそれを捨てたくないのです。自分自身を否定することになりますから、人間社会にいる限り、それはできないのです。けれども神様の前では、人はだれでもプライドを捨てて、裸になれるのです。鎧を降ろせるのです。自分のプライドが許さないということがたくさんあると思います。それはそれで大切にしていくのですが、このプライドという仮面、自分が身につけた鎧は、神様の前では、はずすことができます。そして素のままで、素直で、無垢で、無邪気で、なりふりかまわず。子どもたちのそんな様子を愛らしいと思うように、わたしたちも神様の前で愛らしい、幼子のようなわたしたちなのです。

 お母さんお父さんが、幼稚園の先生が絵本を読む。目をらんらんと輝かせそれを夢中になって聞く。幼子のそんな姿、それが神様に聖書を読んでもらうわたしたちの姿です。

 二匹の魚と五つのパン
 たったこれだけで主イエスはそこに天の国を再現してくださったのです。領主ヘロデの前にはありあまるほどの豪華な食事がずらりと並びました。一つのお盆のうえにはグロテスクにも、なんと人の頭までが並びました。この世の宴はこんなふうに繰り広げられます。かたやガリラヤ湖の向こう岸では、2匹の魚と五つのパン。これで五千人の飢え渇いた人々が養われたのです。たったこれだけで主イエスはこの地上に天の国をもたらしてくれたのです。