説教「聖の中の俗」
ルカ16:1~13
聖霊降臨後第18主日(2013年9月22日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹
俗という言葉があります。俗っぽいとか、世俗という言い方で使われます。あまり誉められた意味はなく、世間ずれしているとか、卑しさといったものを表すときにこの言葉があてがわれます。それに対して俗っぽくない場合、清らかで尊いものに対して、聖という文字を用います。聖書の聖です。「聖なるかな」の聖です。聖と俗。そういう使い分けをわたしたちはします。
イエスはどんな人だったか、どこまで聖なる人だったのでしょうか。青い目をした金髪の西洋人の肖像画が思い浮かびますが、あれは西洋人が想像して描いた絵画なのでそのイメージは正しくありません。
イエスは生粋のユダヤ人ですから、日本人のように髪の毛は黒く、肌ももう少し日焼けした感じの色をしているイメージのほうが実物に近いでしょう。
それはいいとして、やはり気になるのはイエスの性格です。聖書にはそのあたりのことはこれと言って書いてないので想像するしかありません。かってにイメージを膨らませてみるとどんな感じでしょうか。真っ先に思い浮かぶのは、讃美歌「慈しみ深き友なるイエス」でしょうか。そうするとイエス様って優しい目をして愛らしく、いつもにこにこしている表情ができあがります。けれどもイエス様には激しさもあります。エルサレム神殿に所狭しと並ぶ出店を、次から次へとたたき壊して暴れたという記事が聖書にはあります。さらに、とっても情に厚い人のイメージもあります。かわいそうな人をみると居ても立ってもいられなくなり、つい涙を流してしまったこともあります。なかなかひとつのイメージで固めてしまうことはできません。そうしないほうがよいでしょう。
イエスは聖なる人です。神の子として、救い主として、間違いなく聖なる人でした。けれどもその「聖なる」というのは、私たちが思い描く「聖なる」とは違います。ひょっとすると意外にも俗っぽかったのではないか・・・というか、みかけは私たちとなんら遜色ないごく普通の人だったのではと、私は思うのです。みかけだけでなく性格も私たちとさして変わらず、ただ優しいだけではなくて、時に心奮わせて怒りがこみ上げたり、涙もろかったり、そしてみんなといっしょに下世話な世間話にケタケタ笑ったり。聖書を読む限りそんなイエス様を私は思い浮かべますが、これは不謹慎でしょうか。
きょうのたとえ話は、そんなイエスの一面がとてもよく出ています。これを読んだとき皆さんの中には、「イエス様がこんなあざとい話をなさるなんて・・・」そう思われる方も多いでしょう。確かにこのお話は、私たちのイエス様のイメージにあわないのです。イエス様はこんな人ではないはず、そう思えてなりません。
けれどもよくよく読んでいくと、これはイエスのちょっとしたパロディではないか、私はそう言い表したいのです。
これはたとえ話です。金持ちの主人とその人に仕える管理人。その管理人がご主人の財産を無駄遣いした、というか不正使用します。それに気づいた職員の誰かが内部告発をした。・・・ちょっと前の新聞報道で読んだ話じゃないのか、なんていう気がしてきますが、これは二千年前、イエスの時代のお話です。人間は今も昔も相も変わらず同じなんだと驚かされます。そしてこういうたとえ話をイエスがしたということは、これが決して珍しいことではなく、当時の人々がよく耳にする出来事だったからでありましょう。
管理人は仕事を失う危機に陥ります。当然落ち込むことでしょう。それが三節の言葉に表れています。「管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。』」自分がもしもこういう立場におかれたら、まったく同じように考えると思うのです。若かったらまだしも、つぶしが利かない年になったらまさしくこの心境でしょう。
でもなんとかしなければなりません。そこでこの人は気を取り直して、「そうだ、こうしよう」と思い立って行動に出ます。なにをしたかというと、証書の改ざんです。彼が管理していた債務者のところに出かけていって、主人から借りているのが油100バトスだったらそれを50バトスに、小麦100コロスだったら80コロスに書き換えよと指示をしたのです。明らかに不正を働いています。
このたとえ話の落ちは8節で、「主人がこの抜け目のないやり方をほめた」というところです。たとえ話なので普通だったらこういうことはあり得ません。
いずれにしろいろいろ解せないところが多いたとえ話です。なぜこのようにずるい人を主人がほめるのか。被害に遭った主人がほめるのか。それにしてもなぜイエス様ともあろう人が、こんなふざけた話をするのか。こんなずるい人をほめてはいけないでしょ、許されるはずないっ・・・。このあたりが最大の疑問です。
わたしはこうしたところがイエスのパロディではないかと思うのです。この部分だけを真に受けてはいけません。世間でちょくちょく耳にする話題をまずしておいて、それを前座にそこから本題へと入っていくのです。それがイエスの語り口なのです。四角四面で実直な人にはこういう話術はたぶん難しいでしょう。そういう意味で、イエスという人は、私たちが思い描くようないわゆる「聖なる」人ではなかったとみなすべきであります。ですからこの部分だけから、イエスのメッセージを聞き取ることはできないのです。
「主人はこの不正な管理人の抜け目のないやり方を誉めた」。主人というのは、たとえ話の中ではたいてい神様のことと考えることができます。ですからこの不正な管理人を神様がよしとしたということになるのです。なぜでしょうか。前半がパロディだとしても、この結論はどう考えたらいいのでしょうか。
鍵となるのは10節です。「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」。ファリサイ派や律法学者たちがよく使うユダヤ的な論理の組み立て方が、この言葉の背景にはあるのです。ほんのちょっとしたことで当てはまるのなら、もっと大切なことだったらなおのこと当てはまる、という論理です。こういうふうに筋立てて、「忠実であれ」というメッセージをイエスは語るのです。
イエスはときどきこの言い方を使います。11章には、「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか」というみことばがあります。そんなことはしないだろう、いい物を与えるに違いないと呼びかけるのです。そしてイエスはこう結論づけます、「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」。「まして天の父は、求める者に聖霊を与えて下さる」、この「まして」という接続詞でつなぐ用法です。
最悪のケースとして不正な管理人のたとえをイエスはまずします。許されないやり方ですが、結果、この管理人はなんとか主人にほめられたのです。主人に対して忠実と認められたということです。このように悪いことにも忠実であることが大切なのだから、ましてや本当に価値あるものに対してはなおのこと忠実であれ、そのようにイエスは語るのです。
不正や理不尽、納得のいかないことがいっぱいはびこる私たちの社会。不正だと分かっていても忠実を求められ、そうするしかなかったりします。そうしたことをだれしも経験させられるのです。社会のそうした現実を経験すると、あらためて「忠実」ということを考えさせられます。
けれども「本当に価値あるもの」、11節のみことばでイエスが語る「本当に価値あるもの」だったら、忠実であることがどれほど大切であり、どれほど神様からほめられることでしょう。そのようにイエスは語りかけるのです。
誠に忠実であるときに、主人である神様は、あなたがたに本当に価値あるものを与え、あずけてくださる。
そして13節でこのように締めくくります、「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」。富、それも不正にまみれた富に忠実に仕えるという世俗的な話題からはいって、「本当に価値あるもの」である神様に対して忠実に仕えるという結論を導き出すのです。神という「本当に価値あるもの」。この世のなにものとも比較できない、尊く、清く、聖なる神様に対して忠実であることがどれほどすばらしいかをこのように描いたのです。
イエスという人は、こんな下世話な話をするなんとも俗っぽい人だったのです。みかけも性格も私たちと変わらない一人の男は、俗の中で最も聖なるものを示したのです。ことばという、やはり俗なる道具を使って最高の聖を語ったのです。
俗の中に聖がある、私たちはそう思うかもしれません。けれどもほんとうは反対なのです。聖の中に俗があるのです。神の大いなる聖が私たちの俗を包んでいるのです。イエスのことばからそれが聞こえてきます。