説教「ゆるされている私」
マタイ18:21~35
聖霊降臨後第17主日(2014年10月5日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹
先週の日曜日は神学校からサック先生にお越しいただき、悲しみをテーマにいろいろと考えさせられるお話を伺いました。サック先生は悲しみのことをspiritual pain(霊的な痛み)とも言い直していました。そしてspirtitual pain には四つの次元があり、その四つとは、希望を失う痛み、関係性の痛み、意味の痛み、赦しの痛みの四つです。そしてこの四つのpainの中で赦しのpain を抱えている人が最も多いのだそうです。
そしてきょうの福音書のテーマはその「赦し」です。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか」。ペトロがそのようにイエスに尋ねています。それに答えてイエスがひとつのたとえ話を語って、赦しについて教えています。赦しについてイエスの教えを聞く前に、このたとえ話をもう少しよく見てみましょう。
ペトロはイエスの弟子とされたわけですが、この人は深く冷静にものごとを考えて神様の御心を知るというタイプではありません。漁師ですからやはり行動派です。つべこべいわずにとにかくやる。たぶんそういうタイプだったのでしょう。律法学者のように神の御心の奥義を神学的に極めて、深く考えてそれを論文としてまとめる、などということはしなかったでありましょう。ペトロのこの質問は、そういう神学的な問いではない、そう考えたほうがよいでしょう。彼の質問はもっと現実に則していて、「オレはあいつをゆるせない」、そういうことでしょう。生活の中から出た質問です。
ペトロはとても真剣にイエスに質問したと思うのです。そうとう腹が立っていたのでしょう。仲間の弟子の一人に何か言われてむかっとしたか、いざこざがちょっとあったのかもしれません。だれにもそういうことってありますね。
おもしろいのは、「何回許すべきでしょうか。7回までですか」と、自分から答えを出して、それが正解ですかそれとも間違っていますか、という聴き方をしている点です。7という数字は聖書では聖なる数字、完全数などと言われます。ペトロはイエスの弟子となったわけですが、イエスからそう教えられていたのか、とにかく彼はそういう聴き方をしました。するとイエスが、「7回どころか7の70倍までも赦しなさい」、と答えるのです。そしてすぐあとに、この「7の70倍」という意味ありげな回答の意味を、たとえを用いて話し始めます。
イエスはペトロにあわせたのか、このたとえ話はえらく下世話な物語になっています。借金を返す返さないという設定です。ひょっとするとこれこそがペトロが抱えていた悩みだったのかもしれません。誰かにお金を貸したのにちっとも返してくれない、もういい加減にして欲しい・・・、それでイエスもこういう借金のたとえ話をしたのかもしれません。
それにしてもイエスが用いた金額が途方もなく桁外れです。1万タラントンというのは、おおざっぱな計算ですが一日の日当を2万円とすると、12兆円とでました。それだけのお金を王様が家来に貸したという設定です。そして王様は返済できない家来を憐れに思って、12兆円の借金をチャラにするのです。ところがその同じ家来は、自分が人に貸した100デナリ、せいぜい200万円程度ですが、これを仲間に迫って「返せ」といって首を絞め、返すまで牢に入れたというお話です。あってはならないひどい話だと、だれもが思うわけです。別に難しくもなんともない、とてもわかりやすいたとえ話です。
1万タラントン、12兆円という途方もない桁の金額ですが、これはイエス様がふざけてわざと大げさに言ったんだと決めつけないほうがいいと思います。なぜなら貸すのは王様ですから。金額としてあり得るかもしれません。ちなみに東京都の今年度の予算が6兆円だそうで、東京都の予算の倍を王様は家来に貸したということになります。使っても使っても使い切れないお金を家来は王様から受けとったのです。イエスのたとえ話に登場する王様というのは、たいていの場合神様のことです。ですから1万タラントンとは、神様からいただいた無限の賜物、そういう意味を含んでいるのです。
たとえ話の家来は、それだけの借金を帳消しにしてもらったというのに、自分が人に貸したお金はきびしく取り立てるわけです。たとえ話だからいいですが、あってはならない話です。こんなばかな話はない。こういう常識のない人間はとてもではないが世間を渡れない、なんて身勝手な人、そんな言葉をつぶやきたくなるわたしたちです。ペトロもきっとそう思ったことでしょう。
きょうもそうですが、福音書を聞くときわたしたちは起立してハレルヤ唱を歌います。主を褒め讃えるのです。立って救いの福音を聴くのです。姿勢を正して神の言葉を受け止めます。さきほどわたしたちは、このちょっとげすなたとえ話を、聖なる神の言葉として起立して静聴しました。みなさん方の中でこれを耳にしたとき、この家来はほかでもないみなさん自身のことだと思って聴いた人がどれぐらいいるでしょうか。12兆円の借金をチャラにしてもらったというのに、その舌の根の乾かぬうちに、今度は人の首を絞めて金を取り立てる男、このけしからん奴はじつは自分のことだと、福音書を聞いた瞬間に気づく人がいるでしょうか。たぶんいないでしょう。
申し上げにくいことなんですが、これはみなさんのことなんです。この無礼者の家来とは、わたしたち自身のことなのです。
イエスの見立てだと、ここで家来というのはおそらくペトロでしょう。自分はまただまされた。お金を貸したらまた踏み倒された。「先生、何回赦せばいいのですか」。腹立たしくてむしゃくしゃしながらイエスに質問するペトロは、自分は被害者で加害者を責める立場に置いて発言しています。被害者の自分が加害者をどう赦すかと考えています。ペトロは自分が赦される立場では語っていないのです。
けれどもイエスはペトロを、赦してもらわねばならない側に置いてこのたとえ話をしたのです。王様に巨額の借金を赦してもらった家来とは、他でもないペトロなのです。王様に赦されたのに、人を赦さない家来とは、ペトロなのです。
赦しについて聖書から考えるとき、わたしたちは往々にして「どうしたら人を赦せるようになるか」、という方向へ話を進めます。赦すということがとても難しいだけに、ここに焦点が絞られていくのです。自分を赦してもらう側において語ろうとしないのです。きょうのたとえ話でいうならば、巨額な借金を王様に赦されたということ、このことをまず深く受け止めたいのです。ほんとうにひどい家来ですが、赦されているのです。それがイエスのメッセージです。 7の70倍赦されている。このみことばをわたしたちの心と体のすみずみまでしみ込ませるのです。どうしたら私は人を赦すことができるかを考える前に、7の70倍私は赦されているという幸いをイエスのみことばからいただくのです。
赦しというのは、私にはとても扱いにくい聖書のテーマです。おそらくそれは説教をする私もまた、赦す立場に自分を置いてしまうからでしょう。今回、こうして説教しながら気づかされたのは、自分が赦されていることを疎かにしてしまっている、ということでした。神様に赦されている、その喜びこそ、わたしたちが聖書から受けとれるのです。それなしに、私が誰かを赦すというのは、考えられません。
アガペルームのテーブルの上に、きょうのテーマにピッタリの本があり、目に留まりました。「ゆるす愛ゆるされる愛」( 鈴木秀子)。最近どなたかが読んで、その後にここに置いたのでしょう。その中にあった言葉をちょっと紹介します。
自分の子どもや身内の方を亡くしたあなた/突然ひどい事故に見舞われたあなた/信頼していた人からひどい仕打ちを受けたあなた。
あなたの心にある怒りを、無理に消そうとすることはありません。でも、それだけに囚われすぎないでください。ゆるせない自分を責めないでください。
自分のまわりの小さな出来事に目を向けましょう。
日常のなかの「小さなゆるせないこと」を、ゆるしつづけることです。
深い憎しみや悲しみは、簡単には消えないかも知れません。
でも、小さなことでも、ゆるせた自分が誇らしくなります。
赦す自分となるための処方箋がここにあります。心の中の怒りに囚われすぎないこと、赦せない自分を責めないこと、身の回りの小さなゆるせないことをゆるしてみましょう。ゆるす愛というのは、そこから始まるようです。これならできそうな気がします。
赦されている私がまずいて、赦す私へと変えられていきます。