説教「できる人、できない人」
マタイ20:1~16
聖霊降臨後第18主日(2014年10月12日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

 「働かざる者食うべからず」良く知られている格言です。この格言はたしかに生きていて、いつの世にあっても有効で正しい教えです。けれども格言というのは、すべての場合に当てはまるわけではありません。「働かざる者」というとき、本当は働くことができるのにさぼってばかりいて仕事をしない、そういう人にあてがうならば、これは確かに当てはまります。けれども「働かざる者」を「働けない者」と混同してしまってはいけません。「働けない者食うべからず」ではありません。働けない者の中にはさまざまな人たちがいます。だれだって体調を壊したら働けません。小さな子どもとお年寄り、障がいのある人も厳しいです。働ける者と働けない者が人間社会にはいるのです。そして自分自身もこれまで働けない者だったし、働けない者にいつだってなります。働く者と働かざる者も人間社会にはいるのです。この三つのカテゴリーのうちのどれかに、すべての人が当てはまります。そして三つのカテゴリーのすべての人は食うことができる。働かざる者も食うことはできるということです。このように考えてくると、先ほどの格言「働かざる者食うべからず」は正しくないということになります。格言といえども、やはりあてはまらないことはあります。

 利益を追求することを目的とする企業であれば、どうしても「働かざる者食うべからず」をまず第一に考えるでありましょう。一方社会福祉の立場に立てば、「働かざる者も食うべし」となります。どちらも正しい、そしてどちらも間違っています。これをどのように使い分けるか。それが人間社会の難しさです。

 今、わたしは人間社会の現実をお話しました。わたしたちが生きている現実の世界について述べました。きょうの福音書はそうではありません。冒頭の1節が示しているように、これは天の国のお話です。まずそこに大きな違いがあるという認識を、わたしたちは持ちたいのです。けれども天の国のお話だから、今生きている現実とは関係がない、聞くに値しないということではありません。天の国のたとえ話はこれで何度目でしょうか。わたしは今年になって繰り返し繰り返し、天の国のたとえについての説教をしてきました。それだけなんどもイエスが語り、そのつどマタイが福音書に書き留めたということです。

 イエス様が天の国を持ち込んだのです。神の子イエスは、天の国を持ち込むためにこの世に遣わされたのです。

 きょうのたとえ話はわかりやすいお話です。ブドウの収穫の時期になったので人手が必要となり、主人は人捜しにでかけて朝9時から働き始めた人、お昼からの人、3時からの人、そして夕方5時の人を雇います。当然労働時間が違うわけですが、なんとこの主人はすべての人に、1日の労働賃金1デナリを支払うのです。夕方5時からの人がいくらもらったかなんていうことは、朝9時から働いた人には関係ないのですが、なんと主人は5時から働いた人から始めて支払うものですから、他の人の手取りまでわかってしまうのです。そして不平等だと不平をいいます。知らなければ気分を害することもなかったはずなのになどと思ってしまいます。

 これが天の国だというのです。こういうやり方は、普通この世では通用しません。この世では不公平という問題が生じます。この世の中はgive and takeの関係ですから、giveした分だけもらう、takeすることになります。そして与える人と受けとる人がそれに納得する必要があるのです。どれだけ与えたか、 どれだかもらえるか? すべてはこれにかかっています。

 けれども、天の国ではgive and takeではないということのようです。天の国での話ですから、この場合giveは神様、takeがわたしたちとなります。神様の一方的なgiveなのです。わたしたちがどれだけ頑張ったか、何を成し遂げたか、反対側からいうならば、どれだけだめ人間で役立たずだったか、だらしなかったか。このことが我々の社会において最も問われるわけですが、天の国では、つまり神様はそれをまったく問わないのです。そして9時からの人にも夕方5時から働いた人にも等しく同じ報いをくださるのです。

 これを人間であるわたしたちの側からみてみましょう。できる人からすると、「わたしはもっともらえるはずなのに・・・」と不平不満がでるわけです。一方、できない人からみれば、「助かった、よかった」となります。生きているわたしたちはいつも、自分自身がどう思ったか、どう感じたかを最優先します。ですからここが大事なんですが・・・。

 けれどもわたしたちがどう思うか、どう感じたかということよりも、そのように分け隔て無くふるまう神様というのはどういうお方なのか、そういうことを考え、そのことを知るほうが、もっともっと大事なことなのです。きょうの福音書はそのことを教えてくれます。このたとえ話に示されている神様というのはどんな方なのかが、よくわかります。ひとことでいうと、神様はほんとうに大らかで気前が良く、寛大なお方ということになるでしょうか。

 神様のこういった特徴というのは、なにもきょうのたとえ話だけではありません。イエス自身が語る言葉の中に何度も登場しています。たとえばの山上の説教の中にある有名なみことば(マタイ5章45節)を思い出してみましょう。イエスは言いました、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」。これなどはきょうのたとえ話のメッセージを一言で言い表しています。もうひとつ例をあげるならば、イエスの有名なたとえ話放蕩息子のお話をあげることができるでしょう。放蕩の限りを尽くして家を飛び出した息子を父はひたすら待ち続けて、帰ってきたらあらん限りのもてなしをして喜ぶのです。まじめで働き者の兄がしてもらったことのないほど手厚く歓迎されます。そして兄はこんな父親の気前の良さに腹を立てます。不公平と思ったわけです。朝9時から仕事していた人と同じです。そのとき父親は兄に向かってこう言います、「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。だが、いなくなっていたのに見つかったのだ」(ルカ15章31節)。兄は、これまで自分がどれほどたくさんの恵みを父親から受けていたかをすっかり忘れていたのです。

 きょうの福音書は20章1節から始まっていますが、実は19章の最後の1節を含めて読むことで、さらにメッセージの奥深さがわかります。19章の30節には、とても有名なこういうみことばがあります。「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くのものが先になる」。それをそのまま実践したのがきょうのぶどう園のたとえ話です。一番最後に来てちょっとだけ仕事した人が最初に賃金をもらい、朝9時からフルタイム働いた人が一番最後にもらいます。順序というのも、わたしたちの社会では極めて重んじられます。ところがイエスが語る天の国では、順番も意味をなさないということがわかります。どのくらいたくさんやったかという分量、どれだけクオリティの高い仕事をしたかという質、そして順序。いずれも数字であらわし比較評価されます。天の国ではそれがないのです。わたしたちからすれば、あの人よりも私のほうがなどという概念そのものがない世界とでもいえるような次元なのです。こうして生きているわたしたちには想像もつかないわけですが。

 こんなふうにお話しているうちに、いつのまにかわたしも、自分がどう思うか、どう感じるか、人間にとって不公平はないか、えこひいきではないのか・・・と、この世の中の正義とか平等という見方を繰り返しています。神のみことばは、人間の世界のことではなく、天の国のことを語ります。わたしたちがどう考えるかではなく、神様がどういうお方なのかを、わたしたちに伝えているのです。それがメッセージの中心にあることを重ねて申し上げます。量も質も順番も問わない、数字で比てみえるものは何もない、ただひたすら与え続ける。それほどに気前よく、心が広い、憐れみ深い、愛そのものなのです。

 このたとえ話を聞いて、これは不公平だと思った人はこの中にどれほどいるでしょうか。その人たちはまぎれもなく「できる人」です。9時から働いた人です。放蕩息子のたとえでいえば、いつも父と共にいることのできた人です。「不公平だ」と思えるのは、神様から恵みをたくさんいただいていることの証拠と思ってください。そしてわたしたちすべては、冒頭にも申し上げたように、人生のどこかで必ず「できない人」となります。5時からも働けなくなります。わたしたちは「できない人」でもあるのです。そのときにきっとわかるでしょう、神様の気前の良さが実は自分のためだったのだと。