説教「いのちの形」
マタイ22:34~40
聖霊降臨後第22主日(2014年11月9日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹
11月2週目の日曜日、マタイ福音書を読んできた教会の暦もいよいよ大詰めです。きょうのテキストからはあまり大詰めという雰囲気は伝わってこないのですが、イエスの立場がとうとうぎりぎりの所まで来たな、というのを感じ取ることができます。
冒頭34節にこうあります、「ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった」。サドカイ派というのはユダヤ教のもうひとつの派で、神殿の儀式を重んじるグループです。一方ファリサイ派は聖書の律法を重んじるグループです。派閥ですから考えに違いはあるわけです。それでもイエスをどう見るかという点では両者は同じでした。いずれの派閥もイエスを敵対視していました。ですから34節のような言い方が出てくるわけです。一緒に集まったのは、この厄介者をどう始末したらいいかと話しあったのでしょう。そしてイエスを試す、つまり罠にはめるために考え抜いて出てきた質問、それが36節です。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」。「先生」と呼びかけるあたりはいかにもファリサイ派らしく、落ち着いて丁寧に議論しましょうという姿勢が表れています。
なぜこの質問なのでしょうか。集まって議論して出した最初の作戦がこの神学的な問答です。さらっと読むと気づかないと思いますが、ここに律法と掟がでています。数ある律法の中で最も大切な掟は何かという質問です。ですからこのふたつを区別しておく必要があります。ファリサイ派の人たちが律法というのは、旧約聖書の最初の五つの書のことです。創世記から申命記までのことを律法といいます。英語でもlawという言葉で翻訳されます。創世記の天地創造は有名ですが、「なんであれが律法なの?」と思ってしまいます。結局のところ翻訳の問題なんですが、ヘブライ語で律法のことをトーラーといいます。もともとの意味は「教え」とか「指示」という意味なのですが、これがギリシャ語に訳されたときに律法にあたる言葉があてがわれたために、この言葉を使っています。
トーラーとは「神の教え」と考えればすんなりと理解できるのではないでしょうか。掟というのはその言葉どおりで神の命令のことです。命令ですから、きちっと守らなければならない教えということです。トーラーの中に規定されている教えは全部で613あるそうです。すべてモーセ五書に由来します。これをふたつに区分けすると、こうしなさいという命令が248、してはいけないという教えが365あるそうです。禁止命令のほうが多いですね。やるなという命令のほうがやりなさいという命令よりもずっと数が多いのです。なぜでしょうか。人間が好き勝手なことばかりやるからかもしれません。やりなさいと言われてもなかなかできないというのも事実だし、やるなといわれるとかえってやりたくなったりします。単なる数字の違いですが、こういったところに人間の本性が出ているようにも思えます。
というわけでどの掟が最も重要か、613ある中でどれが一番かという質問をイエスに向かってしたわけです。これは極めて専門的な議論です。専門的というのはつまり一般の人にはどうでもいいような議論ということです。そもそも神の掟にどれが一番でどれが二番というような順序づけするのはおかしいという意見もあるわけです。
けれどもイエスはそれに答えます。そしてふたつを取り上げました。ひとつが申命記6章4節の律法、『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。もうひとつがレビ記19章18節の律法『隣人を自分のように愛しなさい』。イエスはふたつを取り上げて、まとめてこう言いました、「律法全体と預言者は、このふたつの掟に基づいている」。聖書のすべての教えは、このふたつの御言葉に集約されるということを言ったのです。
ファリサイ派や律法学者と激しく対立しましたから、ともするとイエスは律法を否定したのかと思われがちです。そうではありません。多くの方がご存じのイエスの山上の説教というのがあります。その中でイエスは、「あなたがたが聞いているとおり」という言い方で前置きをして、律法にはこう書いてあるといいます。たとえば『殺すな』と命じられている」と言います。そしてそのあとでこう言います、「しかし、わたしは言っておく」。そう言ってこの律法を越えた言い方をするのです。「殺すな」に対してなんと言ったのかというと、「しかしわたしは言っておく。兄弟に腹を立てるものは誰でも裁かれる。兄弟に『愚か者』という者は、火の地獄に投げ込まれる」。こういう言い方を繰り返すのです。そして律法についてイエスはこういう言葉を残しています。「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」。これがイエスの律法論です。律法を守ることにそこまで躍起になるのなら、徹底的にやりなさいという教えです。「嘘は泥棒の始まりだから嘘をついてはいけない」というのと同じです。律法がそんなに大事なら、あなたがたは律法学者なんだからそこまで徹底的に守りなさいというのがイエスの主張です。
すべての律法の中でこのふたつが最も大切だという見方がここに出ているわけですが、これを初めて説いたのがイエスだったというわけではありません。そういう見方はすでにありました。イエスもそれに賛同したということです。
神様を愛すること、そしてとなりびとを愛するということ。イエスはこのふたつを並べました。第一に神を愛することといい、第二にとなりびとを愛することとしましたが、どちらがより重要という見方ではありません。そもそも愛することに違いはないのです。愛することというのは神の本質です。愛することとは神そのものなのです。ヨハネの手紙にもあるように、「神は愛」なのです。神とは愛することなのです。わたしたちは「神様」と、人格的な呼び方をしますが、そうするのが一番しっくり来るからそうしているだけです。
愛することそのものは全然人格ではなくて、これは行い、行為ですから、様をつけて呼ぶのは不自然です。行為というのはそれをする人、本人、なにかが存在しているから行為が起こります。人格的な固まりがないと行為は発生しないと我々は考えるわけです。人格的な固まりといっても、いのちがなければ愛する行為は起こりません。愛することの中にはいのちがあるのです。神がどういうお方なのかわかりませんが、神様にはいのちがあるのです。
神のいのちが形になったもの、それがわたしたちです。天地創造から誕生したありとあらゆる生きものです。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』とイエスは教えます。『隣人を自分のように愛しなさい』とも教えます。イエスはこれらふたつを述べたのですが、特にどちらのほうが優先すべきということではないようです。「律法全体と預言者は、このふたつの掟に基づいている」、つまりこのふたつをランク付けしないで並べて示しています。ちょっと乱暴な言い方かもしれませんが、神様を愛するということと人を愛するということを区別しなくてもいい、と言えないでしょうか。神様を心を込めて愛しなさいと言われてもどうしたらいいのか困ってしまうと思います。それは神様を礼拝することだ、日曜日に教会に来て神様に祈りを捧げること、それが神を愛することというふうにも説明できると思います。それは間違いなくわたしたちの神様への思いを示すことになるわけですが、それだけに限定もできないと思います。もしもそうしてしまうと、日頃の生活から離れなければ、神様を愛することができなくなってしまいます。イエス御自身の働きを聖書から教えられるわけですが、それをみるとイエスはまさしく生活の現場で、人々との出会いの中で、たくさん神の愛を示してこられたのです。神を愛するということと、となりびとを愛することを取り立てて区別することはないのです。わたしたちがとなりびとを愛するとき、それは神様を愛するということなのです。いろんな人との出会いの中で、愛することができたなら、そのときそこで神様がおられたということなのです。
わたしたちが愛するとき、神がそこにおられます。わたしたちが愛されるとき、神はそこにおられます。わたしたちが愛でつながっているとき、わたしたちは神のいのちを生きているのです。