説教「隠れたる神」
マルコ1:29~39
顕現節第5主日(2015年2月1日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

 わたしたちはショーが大好きです。歌や踊り、映画や舞台。一流のスターたちが演じる演技が大好きです。天性の才能を下地に、日頃積み重ねた鍛錬から生まれる類い希な芸を演じきるスターたちのこの世離れした業の数々に驚き、喜ぶのです。「すごい、すばらしい、とても人間業ではない、まさに神業だ」と、感嘆の声をあげながらパフォーマンスに興じます。エンターテインメントを楽しむ人間は今も昔も変わりなく、人類の歴史とともにあります。聖書の時代もそうでした。ローマ帝国が栄えた時代もそうでした。コロセウムを舞台にさまざまなショーが演じられたようです。映画「ベンハー」でも有名になった戦車競争、それに演劇を人々は満喫しました。それほど全盛期のローマ帝国は豊かだったのです。市民は帝国の巨万の富のお裾分けをうけて、穀物は無料で配られて食べることにも苦労しなかったそうです。そういう豊かなローマの帝国文化を評して、「パンとサーカスの都」と言われました。けれどもこのパンとサーカスがまた、ローマを滅亡へと追いやったと言われています。ショーはやっぱりショーなんだということを忘れ、浮かれ過ぎてしまったローマ市民は、結局のところ生きることの本当の価値と意味を失ってしまったのかもしれません。

 顕現節第5主日のきょうの福音書は、シモン・ペトロの義理の母が熱を出して寝込んでいたという話から始まります。原因はわかりません。風邪を引いていたのかインフルエンザか、それとももっと深刻な病気だったのか。そこへイエスがやって来て熱を下げたので、彼女は元気になったのです。そこへたまたまイエスが通りかかったから、熱を下げてもらって姑は運が良かった、そういうことではありません。

 こう書いてあります、「人々は早速、彼女のことをイエスに話した」。イエスを呼びに行ったのです。「母が熱を出して苦しんでいます、どうかお願いですからうちに来て、熱を下げてやってくださいまし」とお願いしたのです。イエスが病気を癒すということを、人々はもうすでに聞いて知っていたから、こういう展開になったといえます。先週読んだ福音書の最後の一節にはこうあります、「イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった」(1章28節)。もうすでに多くの人たちがイエスの評判を聞き及び、イエスがただ者ではないと知っていたのです。

 マスメディアという手法がまだなにもない時代に、たちまち評判がガリラヤ地方の隅々にまで知れ渡るというのは、よほどのことがあったからでしょう。ただ単に、神様についていいお話を聞かせてもらった、という程度ではそこまで広がらないでしょう。なんといってもやはりイエスが、悪霊を追い出したり奇跡を行ったりしたからです。「すごい、すばらしい、とても人間業ではない、まさに神業だ」と目撃した多くの人が感嘆の声をあげたから、イエスの評判がたちどころに広がったのです。「夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった」と書いてあります。評判はますますエスカレートして、次から次へとイエスのところにやって来たことがわかります。なにもとやかくいうことではなく、これはわたしたちがとる普通の行動であります。

 けれどもここで34節の言葉に注目したいと思います。「イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである」。悪霊にものを言うことをお許しにならなかった、とあります。先週も悪霊が登場しましたが、そのときイエスと対面した悪霊は言葉を発します、「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」。けれども今回はものをいうことを許さなかったのです。実はこのあとも何度か出てくるのですけれども、マルコ福音書に登場するイエスは、奇跡的なわざを行う度に、そしてそれを目撃した人々が感激して舞い上がるたびに、「これを誰にも言ってはいけない」と注文をするのです。イエスのこうした働きが言い広められることをイエスは避けたのです。ショーやパフォーマンスが大好きな私たちからしてみれば、ここぞとばかりにその名を世間に向けて全世界に向けて告げ知らせる絶好のチャンスと考えるわけですが、イエスはそれを拒んだのです。

 私たちの思いとはうらはらに、癒しや奇跡のわざの数々で自分の名前が知れ渡ることをイエスはよしとしなかったのです。そうしたことで自分の任務、ミッションを果たせるとは思わなかったのです。奇跡や癒しといった神業では、まことのイエス、まことの神様が伝わらないからにほかなりません。歩けなかった人が歩き出すとか、医者に見放された人の病が治るとか、そういう恵みのわざを強調したくなりますし、事実そういう教会もたくさんあって、それを教会の働きとみなしたくなりますが、マルコ福音書に描かれたイエスとその言葉を見る限り、そのような業を通して伝える福音宣教は、キリストの御心ではありません。

 主イエス・キリストをいかに伝えるか。これが教会が担っているミッション、課題です。奇跡の強調ではない方法でイエスの福音を伝えるのです。なにも特別な才能や力もないわたしたちにもできる、キリストにつながりながらできる福音宣教、その最もよい例がきょうの福音書にあります。イエスに熱を下げてもらったペトロの姑が、その次にとった行動です。31節にはこう書いてあります、「彼女は一同をもてなした」。熱を下げてもらった彼女は元気になって、それから人々のお世話をしたのです。もてなすことで姑はイエスに仕えたのです。自分ができることで彼女はイエスを伝えたのです。あまりにも地味なので見過ごしそうですが、ここを見落としてはならないと思うのです。

 ルターの神学思想を表すキーワードのひとつに、「隠れたる神」というのがあります。神様は隠れておられて見えない、神様がいそうだと思えるようなところ、神秘的で聖なる雰囲気が漂うところに神はいない、むしろ神はだれも気づかないようなところにおられる、というのです。ではどこに神は隠れているかというと、ルターはこう言いました、「十字架につけられたもうたキリストの中に、まことの神学と神認識がある」。神様は他でもない、十字架の上だったのです。十字架にはりつけられたキリストの内に神は隠れている、そのようにルターは教えるのです。そのような意味においても、ペトロの姑のおもてなしを見落としてはならないのです。

 悪霊を追い出したり熱を下げたりと、神がかり的なわざでうわさがうわさを呼んで、大勢の人だかりがいつもイエスを追いかける様子が、きょうの聖書から伝わってきます。そうした人混みから離れて、イエスは一人の時間を大切にしました。人里離れたところへ祈りにでかけます。そういう心境になるのはわたしたちにも十分理解できます。やがてシモン・ペトロに見つかって、ペトロは言いました、「みんなが探しています」。それに対してイエスは「よしわかった」と言いませんでした。そしてこういうのです。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」。これ以上評判が広がるのを避けているようにも聞こえてきます。癒し主イエス、エクソシスト・イエスというふうに伝わっていたとしたら、それは神のミッションからまったくそれてしまったということです。イエスは新たな宣教の旅に出たのです。

 「わたしは宣教する」。「そのためにわたしは出て来た」。宣教という言葉の中に、イエスの働きのすべてがあります。その中に姑の癒しや悪霊退治も含まれていたわけですが、それはイエスの宣教の結果としての出来事に過ぎません。そうなる前にもうすでにイエスの宣教は始まっていたのです。熱に苦しむ姑を深く憐れむ心、悪霊に苦しむ人を解放しなければという救い、そこにすでに宣教が始まっていたのです。そしてシモンの姑はそれに反応し、人々をもてなしていくのです。そしてこのようにイエスと出会った人々がつながって、イエスの宣教を広げていったのです。

 神は隠れておられます。神は宣教のわざの中にひそかに表れるのです。癒し、もてなし、思いやり、気づかい、介護、援助、励まし、共感、祈り。キリストに従う私たちのそうした日々の働きの中に、神は生きておられるのです。