説教「栄光から十字架へ」
マルコ9:2~9
変容主日(2015年2月15日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹
季節の変わり目
きょうは変容主日という名前がついています。山の上で、イエスの姿が劇的に
変わって白く輝いたからです。さらにそのとき旧約聖書の二人の英雄、モーセと
エリアの姿が現れたという、驚くべき出来事についてみことばを聞く日曜日です。
それをわたしたちは今、聞きました。
これまでは神の顕現を覚える日曜日でした。クリスマスのあとの日曜日をそう
呼んできました。神様が御自身を顕されたという神の言葉を、イエス・キリスト
のさまざまな働きを毎週日曜日に聞いてきました。なにがあったでしょうか。主
イエスが洗礼を受けるという出来事がありました。熱を出したペトロの姑をイエ
スが癒したという出来事がありました。悪霊を追い出したというお話がありまし
た。神が働き力を示して、御自身を顕された出来事です。そうした出来事のいわ
ば最後としてきょうのテキストがあります。
けれどもここにあるのは、たしかに神の神々しさがふんだんに現れているので
すが、姿が変わったのです。もうこれまでとは違うということです。主の顕現は
終わりを告げたのです。そして今週の水曜日から教会の暦が変わります。暦の名
前は四旬節。かつては受難節という言い方をしていたことからも、今週水曜日か
らわたしたちはキリストの受難を覚えて礼拝をすることになるのです。神様の栄
光と力を感じることができた顕現節から、苦しみと痛みを担う神様を覚える四旬
節へと変わるのです。ルーテル教会を始め主なプロテスタント教会では、毎年こ
の切り替わりの節目に、必ずこの主の変容主日を守り、この出来事を読むのです。
日曜日の礼拝の意味
聖書によるとこの出来事は、イエス一行が高い山に登って起こったとあります。
言い伝えでは、これはイスラエルの北のほうに位置するヘルモンという山だとい
うことです。山というのは、日本でもそうですが神様が宿るところとされていま
す。神が顕現した場所、イエスの姿が変わったところが、霊験あらたかな山だっ
たのです。地引き網で魚漁をしたり麦の収穫をしたりといった平地での日常生活
から離れた特別な空間、山だったのです。イエスの姿が変わっただけではありま
せん。そこにはモーセとエリアがいました。モーセといえば旧約聖書の律法をも
たらした人。そしてエリアは預言者の代表者です。律法と預言という旧約聖書の
中の神の言葉がそこに顕現しました。まだあります。彼らの姿だけでなく声も響
きました、「これはわたしの愛する子。これに聞け」。どこかで聞いた神の声で
す。そう、イエスが洗礼を受けたときイエスが聞いた神の声です。ペトロにとっ
てもヤコブにとってもヨハネにとっても、これは普段の生活では起こりえない隔
絶された、特別な山の上での霊的体験でした。そして彼らは山を降りていきます。
わたしたちはこうして日曜日の朝に集まって神様を礼拝します。ここで神様を
賛美して祈りをささげます。旧約聖書と福音書から神のみことばを聞きます。こ
のような時間と空間は、月曜日から土曜日まではなかなか得られません。平日は
どうしても日常の忙しさで追われてしまいます。ですからわたしたちはそうした
日常から離れて、敢えてこうして教会に集まって神様と向き合うのです。この非
日常的な特別なひとときを大切にするのです。仕事のやり残しとか、頭の中を駆
け巡るあのことこのこと、日曜日の朝なんだから、ほんとうはもうちょっと寝て
いたかったとか。ここに来ないでやるべきことはほかにいっぱいあるのに、それ
でもわたしたちはここに来るのです。網を捨てたペトロのように、気になること
はすべて後回しにして、イエスに出会うためにわたしたちは来るのです。きょう
の福音書からいうなら、教会はまさしくヘルモン山です。イエスの声と姿が届く
特別な場所なのです。礼拝が終わったら、やはりわたしたちも下山します。再び
日ごろの雑踏の中へと戻っていくのです。
変貌の意味
今度の日曜日からは四旬節だとさきほど言いました。神の顕現から神の受難へ
と教会の暦もこの出来事を境として変わります。顕現から受難ですから、よく考
えてみればこれは大変大きな変容です。輝かしい神の姿から受難のイエスへと変
わるわけです。そしてこの変化が何を語りかけているのかを、わたしたちは見逃
してはならないのです。
神の姿が変わるのです。ですから、神様に対する見方を変えなければならない
のです。その変容が大きかったように、わたしたちも見方を大きく変えなければ
ならないのです。神様はイエス・キリストを通して数多くの奇跡を起こし、人々
を心から憐れみ、病を癒し励ましてくださった。わたしたちの必要を満たしてく
ださる神様。それが顕現した神の姿でした。けれどもそういう見方をわたしたち
は変えるのです。そして来週からはイエスの内に受難を見ていくのです。苦しみ
を、痛みを、嘆きを見るのです。日頃わたしたちが生活の中で悩みもがいている
のとなんら変わらないどころか、わたしたちの想像を遙かに超えて苦しみ嘆くイ
エスを聞くのです。苦難を歩む神と出会うのです。
神が苦しむ、救い主が試練に遭う。これはモーセが語った律法にも、エリアが
示した預言の中にもあり得なかった神の姿です。けれどもこれぞ、聖書が示す真
実です。栄光の神から苦難の神に変貌したのです。
聖書が記録してくれましたから、後世のわたしたちはこれを読み聞いて、受け
入れることができます。けれどもイエスとともに生きた人たち、たとえばここの
ペトロ、ヤコブ、ヨハネといった愛弟子はどうでしょうか。彼らにはこういう憐
れな姿の救い主は決して描けなかったのです。神は神として、神から遣わされた
救い主は救い主として威風堂々としていて、いつも力を発揮する存在でなければ
ならなかったのです。
下山したとき、イエスは弟子たちに言いました。「人の子が死者の中から復活
するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」。人の子が死者の中から
復活する。「なんのこと?」、思いもよらないまったく見当外れな言葉でした。
死者とは誰のことか、だれが復活するのか。少なくとも救い主のことではないは
ずだ。だったらイエス様のことでもない、ではいったいイエス様はだれのことを
言っているのだろうか。そんなふうに聞いたのではないでしょうか。
弟子たちはイエスの真意を正しく理解できなかったのです。無理もありません。
正しく理解していない人が、さも事実であるかのように語ると必ず誤解を生むこ
とになるというのは、わたしたちの日常にもよくあることですが、山の上でのこ
の日の出来事を軽率にしゃべると、救い主の本当の姿は正しく伝わらなくなりま
す。ペトロは事実この時すこぶる感激しました。「先生、これはすばらしいこと
です。それぞれに仮小屋を建てましょう」。このままだとペトロはこの出来事に
よって、ますます救い主イエスの神々しさを人に語り伝えたことでしょう。「だ
れにも話してはいけない」という、マルコ福音書に繰り返し出てくるイエスの言
葉は、間違った救い主の姿が伝わらないようにと釘を刺した一言でした。傷つき
痛むイエスの姿は、弟子たちには想像できませんでした。
イエスとともにある日常
山の上での霊的体験のあと、彼らは山を降ります。また日常へと戻っていった
のです。日常というのは、来る日も来る日も続く仕事の山。育児、家事、書類の
提出、整理整頓、努力が足りない、ノルマをこなせという上司の声、そういうこ
とです。山の上での不思議な体験はいったい何だったんだ、と思えてくるような
平凡で疲れを覚える毎日が再び続きます。こんな生活を続けていれば、しばらく
するとあの山の上での感激も段々と色褪せていってしまうのではないか。およそ
この世の出来事ではないと思えるような霊的な経験というのは、えてしてそうい
うものかもしれません。
けれどもここで忘れられないことが聖書に証されています。山の上でモーセと
エリアが出てくるという極めつけがあったわけですが、どうやらそれは幻だった
ようで、やがて二人の姿は消えてしまうのです。そして聖書はこう告げています、
「ただイエスだけが彼らと共におられた」。イエスは幻なんかではなく彼らとと
もにそこに居続けたのです。そしてイエスは弟子たちといっしょに山を降りてい
ったのです。
主イエスは山という霊的空間だけに現れるのではありません。主日という日曜
日に、教会という神聖なる場所だけにおでましになるのではありません。主イエ
スは、わたしたちの日常の暮らしにあっても共にいてくださる方なのです。そし
てわたしたちがいろんなことで悩み苦しむのをご存じの方なのです。理解に苦し
む災難が及んだら、わたしは神は自分を見捨てたと思うかもしれません。けれど
も主イエスは受難の主です。苦しむことを自ら受け入れたお方であることを思い
起こしましょう。わたしたちの悩みと苦しみも、主イエスのうちにあります。だ
からこそ復活は現実のこととなっていくのです。