説教「ペトロのキリエ」
ヨハネ21:15~19
復活後第3主日(2015年4月26日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹
市ヶ谷教会のすぐ近くに「援助修道会」というカトリック教会の姉妹修道院があります。通りを渡ったらすぐのところ、歩いて1~2分という近さです。毎年12月24日クリスマスイブの日は、わたしたち市ヶ谷教会がイブ礼拝を終えたあと、若い方々を中心にキャロリングに出かけますが、この修道院に必ず立ち寄り、館内のシスターの方々といっしょにクリスマスキャロルを歌ってイエス様のご降誕を喜び祝うということをしています。プロテスタントのクリスチャンとカトリック修道会のシスターがいっしょにイエス・キリストの誕生をお祝いするなんて、考えてみればすばらしいことを青年たちはしてくれています。
普段は教会どうしでおつきあいをすることはないのですが、こちらの会議室が空いていなかったりしたときに、利用させてもらうことがときどきあります。先日も、わたしたちが作業部会をすることになり、お借りしました。一人のシスターが笑顔で挨拶してくださって、施設を案内してくださいました。「お手洗いはこちらです」と教えてくれるのですが、どこだかよく分かりませんでした。するとシスターが笑いながら、「ごめんなさい、ここは男尊女卑ではなくて女尊男卑なんです」。一番奥まった隅っこにある小さなスペースに男性用トイレがありました。
ビジネス目的の貸し会議室ではないので、中はとても家庭的で、民家の一室にいるようなあたたかさと落ち着きのある空間だったので、根を詰める作業だったのですが、とても快適でした。
カトリック教会の修道会というのは、清貧、従順、貞潔という三つの誓願を立てて、キリストにすべてをささげて生活をする、生涯全てをささげてキリストにお仕えする、そういう誓願を立てた人たちの集まりです。ただイエス・キリストを信じるだけでなく、その信仰を身をもって示すという霊性(spirituality)を重んじているのです。集うシスターたちは世俗の結婚はせず、キリストの花嫁になるのです。
きょうの福音のみことばは、復活したイエスが弟子たちとの食事の席でペトロに問いただす場面です。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」。シモンとはペトロのことです。ペトロは答えます、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。するとイエスが言葉を返してペトロに言います、「わたしの小羊を飼いなさい」。このやりとりが三度繰り返されます。言い方は微妙に違っているのですが、同じ問いかけをイエスが3回繰り返し、それにペトロが3回返事を返し、最後にイエスが同じ命令をするというパターン3回の繰り返しです。
繰り返して言うと、イエスの問いかけ3回、ペトロの返答3回、イエスの命令3回です。相手は全部ペトロです。ペトロといえば、イエスが捕らえられたとき、「おまえもイエスの仲間だ」と人から言われて、「そんな人知らない」と白々しく言い切った男、それを3回繰り返したことを思い起こします。「ペトロ、あなたはわたしを愛しているか」、「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。きょうの福音書テキストは、その3回の否定をひとつひとつ打ち消すかのようです。そしてその都度念を押してイエスは、「私の羊を飼いなさい」と命令するのです。
「わたしがあなたを愛していることは、あなたがよくご存じです」。このペトロの答えになんの偽りもありません。たしかにペトロはあの場面で、イエスを知らないと何度も繰り返して言ってイエスを裏切ってしまいました。身の危険を感じて怖じけてしまい、つい身を守ろうと、とっさに口から出てしまったのです。自分が言ってしまったことというのは、もう取り返しがつきません。鶏が鳴いたのです。
けれども彼はガリラヤ湖の漁師という職を捨て、稼業も家族も放り出して、それこそ一途にイエスに従った人です。ペトロもキリストの花嫁となったシスターたちと同じ道を歩む決意をしたのです。ペトロもキリストの花嫁になったのです。その愛を疑うことなどできません。イエス自身も、そうしたペトロの真剣で一途な愛を疑ったことは一度もありません。何度も失敗もし、揺らいだりはしましたが、イエスを慕う心は決して失っていません。ですからペトロは自信を持ってこう言ったのです、「主よ、わたしがあなたを愛していることはあなたがご存じです」。
ペトロがイエスを慕う心、思う心、それがここでは「愛」という言葉で言いあらわされています。それはまたイエスへの信頼というふうに言い換えることもできます。イエスなしでは自分が自分でいられない。イエスなしでは生きることができない、という思いです。わたしたちに置き換えるなら、これがイエスへの信仰です。信仰するということは、ペトロと同じ思いをイエスに対して抱くということなのです。ふたりのやりとりでいうならば、わたしたちの信仰というのは「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」という思いの告白のことなのです。
そしてこの告白の中には、たっぷりと悔い改めの思いがこもっています。イエスを知らないと言ってしまった愚かさ、その愚かさに鶏が二度鳴くまで気づかないほどのまぬけさがこもった懺悔の告白なのです。ペトロもそしてわたしたちも、この愚かさと間抜けさを共有しています。けれどもだからといって、それがわたしたちのイエスを慕う思いを傷つけることはありません。ペトロがそうだったように、「主よ、わたしがあなたを愛していることはあなたがご存じです」という私たちの信仰はしっかりと保たれるのです。
わたしたちの信仰が保たれると言いましたが、それはわたしたちが主イエスを慕い愛する心がずっとしっかりとあるから保たれるということではありません。信仰とは、自分が主イエスを慕う心、それがすべてだと思いがちです。けれどもそれは勘違いで、むしろ逆なのです。主イエスがペトロを、そしてわたしたちを慈しみ、憐れむ心がわたしたちの信仰をまず支えています。イエスがわたしたちの信仰を裏打ちしている、そんなふうに表現したいと思います。表には表れない主の愛が、裏側からわたしたちを支えている。ズボンが破れないようにするには、表だけでなく裏側から布地をあてて繕います。実はこの見えない裏地があるから破れにくいのとまったく同じです。わたしたちが慕う思いよりもはるかに大きい、主が私たちを愛して下さる愛、主の愛に裏打ちされて、わたしたちの信仰が保たれるのです。「主よ、あなたはご存じです」、ペトロは堂々とイエスにこう言います。あなたがわたしを憐れみ、慈しんでくださっている、イエスがわたしをまず愛してくださっている、この確信があるからこそ、ペトロはこのように言えるのです。
主イエスの憐れみ、イエスの慈しみ。きょうもそうですが、礼拝するたびにわたしたちはまずこれを求めて、祈ります。「主よ、憐れんでください、キリエ・エレイソン」。わたしたちがこう祈るのは、そこに赦しがあることを知っているからです。愚かにも罪を犯してしまい、そして鈍感なことにも犯した罪に気づかないわたしたちなのに、主がわたくしたちを赦してくださる方だということを、わたしたちは信仰によって知っているので、切なる思いで「主よ、憐れんでください。キリストよ憐れんでください」と赦しを祈り求めるのです。
「主よ、あなたはご存じのはずです」という告白をペトロはいったいどんな表情でイエスに言ったのでしょうか。日本人の感覚ですと、たぶんまともに顔を上げられなくて、うつむいたまま恥ずかしそうに言うかもしれません。ペトロはおそらくそうではないでしょう。そんなことをするとかえってイエスに対して失礼な感じでしょう。欧米や中東地域の文化の中では、しっかりとイエスをみつめて真剣なまなざしでこう言ったことと思います。そしてこの中には言葉では表れていないけれど、ペトロの深い悔い改めと、赦しを願い求める気持ちがこもっているのは明らかです。すなわちこのひとことは、ペトロの「主よ、わたしを憐れんでください」なのです。「キリエ・エレイソン」なのです。
イエスは告げます、「わたしの羊を飼いなさい」。いきなりのように聞こえますが、文字となってないイエスの心がここにもありますので、それを見落とさないようにしたいと思います。「あなたの罪は赦された」というイエスの赦しがここにあります。赦されて、宣教の働きをもう一度託されて、ペトロは遣わされたのです。そしてここから教会が出来ていくのです。