説教「一緒に食事をしたい人」
マルコ2:13~17
聖霊降臨後第2主日(2015年6月7日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

 先月、成田空港に行ったとき、それまでとちょっと様子が変わっていることに
気づきました。一番大きな違いは第3ターミナルができたことですが、従来のター
ミナルも少し変わっていて、ふと気がついたのは、今年新たにハラールレストラ
ンが空港にできたことでした。

 ハラールとはもう説明するまでもないかもしれませんが、イスラム教徒の食物
規定のことです。イスラムの掟で決められた食べていいものといけないものがあ
って、たとえば豚肉は食べてはいけないというのはよく知られています。このイ
スラムの戒律を守った食材しか使わないレストランのことです。なぜ今回新たに
成田空港にそのようなレストランが誕生したかというと、それだけイスラム教徒
の人たちが日本に数多くやってきたからです。主にマレーシアやインドネシア、
バングラデシュといったアジアの国々には多くのイスラム教徒がいますが、そう
した国々から日本への移住者が増えた、訪問者が増えたということです。

 ハラールのような食物規定はユダヤ教にもあります。ヘブライ語でコーシェル
といいます。ユダヤ教徒も豚肉を食べません。牛肉は食べますが、すべて血を抜
いてなければなりません。旧約聖書にそのように書かれているからです。どこに
書いてあるかというとレビ記です。「生き物のいのちは血の中にあるから、生き
物を食べるときはすべて血を抜くように」という教えがレビ記17章にあります。
熱心なユダヤ教徒はこれを忠実に守るわけです。ですからユダヤ教徒のための肉
屋さんがあったりします。

 ユダヤ人が実際にどれだけコーシェルを守っているのかはわかりませんが、イ
スラエルに行っても豚肉料理はないし、牛肉もとても固いので、地元の人達はそ
ういう習慣がきっと身についていることでしょう。聖書に書いてあるからという
理由で、頑なに守ろうとする人もいれば、コーシェルが旧約聖書の掟だと知らず、
ただ習慣として食べ慣れないという人もいるでしょうし、なかにはそんなのナン
センスと言って気にすることなく豚肉のショウガ焼きを平気で食べるユダヤ人も
いると思います。それは今も、そしてイエスの時代もきっとそうだったことでし
ょう。

 頑固に守り続けたのはユダヤ教の専門家たちです。律法学者とか祭司と言われ
る人達です。聖書にそう書いてあるから守りなさい、さもないとあなた方は神様
から罰を受けますよと人に教えるわけですから、自分にも厳しくそれを守ろうと
します。コーシェルを厳しく守ろうとすればするほど、それを守ろうとしない人
を許せなくなります。自分がとても大切にしていることを、まったく気にしない
人を見かけたりすると、それだけで腹が立ってしまったりという経験は、だれし
もきっとあると思います。けれどもそれが宗教のレベルの話になると、守るか守
らないかが単なるマナーとかエチケットのレベルではなくて、人生そのものがい
いか悪いかというところまで行ってしまうので、いわゆる「人を裁く」というこ
とをやってしまいかねません。一方でまた、そうした決定的な裁きをする権威、
力をもっていたのが、きょうの福音書に登場するファリサイ派の律法学者でした。
コーシェルだけではありません。旧約聖書にはほんとうに数多くの掟があり、以
前にもお話しましたが全部で613あるそうです。普通に考えたらできっこあり
ませんね。さらにそこから派生したさまざまな解釈で、してはいけないことがど
んどん増えていきます。時代が進めば進むほど益々多くの法律が定められるのと
同じことです。

 14節にでてくる「アルファイの子レビ」ですが、どうやら彼は税金取り立て
人だったようです。ローマ帝国に貢ぐお金をユダヤ人から取り立てる人ですから、
がちがちのユダヤ教徒からすれば、とんでもないことをしてお金儲けをしている
人です。宗教的な言い方をするなら、まさしく「汚れた人」です。このレビの家
には彼の仲間の徴税人といっしょに、「罪人」と呼ばれていた人がでています。
呼ばれ方からして、「汚れた人」というラベルが貼られていたことがわかります。
そう呼んだのはほかでもありません、宗教的権威者である律法学者です。それは
ユダヤ人として生きるために彼らが大切に守っていることを、この人たちが守ろ
うとしないからです。守ろうとしないというか、そんなことをいちいち気にしな
がら生きるほど、生活にゆとりがない人たちです。権威ある人からそう決めつけ
られてしまった罪人たちが、まともな仕事につくことはできません。社会からも
仲間はずれになりました。歴然とした差別が出てきます。

 最近、ミャンマーに住むロヒンギャ族のことがニュースで話題になっています。
仏教国ミャンマーに住んでいるけれど、仏教徒でなくイスラム教徒であるがため
に差別され、ミャンマー国民としても認めらないために難民認定もしてもらえな
い人たちが漂流生活をしていて、彼らをどこが受け容れるかが国際会議で話しあ
われました。インドにはダリットと呼ばれる差別された人たちがいます。ヒンド
ゥー教のカーストのなかにも入れてもらえない人たちです。彼らは汚れているか
ら、近づいてはいけない、触ってはいけない、アンタッチャブルと呼ばれていま
す。こうした問題は日本でも、被差別部落の問題として根深く存在しています。

 ユダヤ教社会のなかで汚れた人、アンタッチャブルとされたのがここでいう罪
人のことです。決して犯罪を犯した人ではありません。差別された人たちのこと
です。宗教や社会によって閉じ込められてしまって生活に困っている人たちのこ
とです。そういう人たちが、いったいどうやってユダヤ教の戒律を丁寧に守りな
がら生活できるでしょうか。

 きょうの福音書でとてもおもしろいと思うのは、徴税人と罪人がいっしょにな
ってイエスと一緒に食事をしているというところです。

 徴税人と罪人たちは、それぞれ差別されている理由は違うけれども、ファリサイ
派からみれば、ユダヤ教に反する生き方をしているという点で、同じ類になって
しまいます。「わたしに従いなさい」、そういってイエスは徴税人レビを弟子に
しました。そしてそのレビの家で多くの徴税人と罪人たちといっしょに、イエス
は食事をしました。そこにはイエスの他の弟子たちもいました。これはファリサ
イ派にしてみれば、あるまじき行為です。アンタッチャブルの人たちといっしょ
に食事をするなどということは、自分を汚す行為になるのです。ですからファリ
サイ派の律法学者はイエスの弟子たちに尋ねます、「なぜイエスは徴税人や罪人
と一緒に食事をするのか」。

 イエスは答えます、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わ
たしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。前半
部分の「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」というのは、イ
エス自身の言葉ではなく、ユダヤの人たちがよく知っていることわざのようです
が、それを引用しながら言ったつぎの言葉はイエス自身の言葉です、「正しい人
を招くためではなく、罪人を招くためである」。

 ここでイエスがいう「正しい人」とは、引用したことわざとの関連でいうなら、
丈夫な人、健康な人、生活に困っていない人ということになります。恵まれてい
る人、そういう言い方もできるでしょう。ただしここでイエスが使った「正しい
人」という言い方には、ファリサイ派に対する皮肉がこもっていることを見落と
さないようにしたいのです。これは、自分で自分のことを正しいと思っている人、
という意味でしかありません。宗教のなかで、あるいは社会のなかで、きちんと
りっぱに生きている人ということです。先ほどのアンタッチャブルのことを考え
ると、ここにいる私たちも、たぶんこの「きちんとした人」の中に入るのではな
いでしょうか。

 私たちは自分自身のことを正しい人と思いたいのです。社会の中で認められた
いといつも思っています。けれども、変な言い方ですが、自分が正しいと思うこ
とは、とても危険なことなのです。なぜなら、自分が正しいと思うことは、いつ
のまにか自分自身を、この律法学者の中にあてはめてしまっているからです。正
しいと思いたいというのは、本当は正しくないからそう思いたいのです。私たち
が普段の暮らしの中で使っている正しいとか正しくないというのは、実は律法学
者たちが追い求める正しさとなんら変わらないのです。イエスさまは、この出来
事を通して、このみことばによって、そのことを私たちに気づかせてくださった
のです。

 本当の正しさは、アンタッチャブルと食事をするイエスのうちにあります。そ
れが神の国の正しさです。それは決して容易なことではありません。この正しさ
の中に入るには、イエス様が必要です。そしてイエスさまは、本当の正しさの中
に入れない私たちを招いてくださったのです。徴税人や罪人を招かれた食事の席
に、私たちをも招いてくださったのです。主イエスの正しさの中へ招かれている
のです。