説教「心の埃」
マルコ2:18~22
聖霊降臨後第3主日(2015年6月14日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹
私の気のせいなのかもしれませんが、断食という言葉をこのごろよく耳にする
ようになりました。そのいちばんの理由は、おそらくこれがダイエットの方法と
して注目されたりしているからではないかと思います。断食ダイエットという本
が書店に平積みされているのを最近見ました。さらに、ただ痩せるために断食す
るというだけでなく、方法さえ間違えなければ断食は健康にとてもよいという話
を聞きます。現代人は栄養を取り過ぎているから、適度に食事を抜くことでから
だはもっとシャキッとするというわけです。断食は修行を積んでいる人が行う宗
教的行為だと思っていましたから、ダイエットや健康法になるなどとは一昔前に
は思ってもみませんでした。
宗教行為としての断食
断食をすべきかそうでないか。イエスとファリサイ派の間でそのような議論が
起こったのが、きょうの福音書です。ここからもみてとることができるように、
断食はもともとは多分に宗教的行為です。この対話の背景はユダヤ教ですが、広
く宗教全般に断食は行われます。仏教ではさしずめ比叡山延暦寺で行われる天台
宗の千日回峰行が有名です。7年間ひたすら歩き続けたあとに断食します。食を
絶つだけでなくて水も飲まない、眠らない、体を横たえない。これを9日間続け
るというのですから、生死をさまようことになります。もちろん大変危険です。
イスラム教の教えには断食がしっかりと定められているようで、大砂嵐というイ
スラム教のお相撲さんは、場所中であってもこれを守っているそうです。キリス
ト教ではどうかというと、キリスト者として断食をしなければならないという教
えはありません。韓国では教派によっては断食祈祷会といって、山にこもって厳
しい祈りの訓練をする教派もあります。
断食しない理由
「ヨハネの弟子やファリサイ派は断食するのに、なぜあなたの弟子たちは断食
しないのですか」。人々がそのようにイエスに質問しました。神にもっと近づく
ために、あるいは心を研ぎ澄ませて無心になるために、そして神の前で悔い改め
のしるしとして、彼らは断食しました。そして君たちもそうすべきだと人々にも
教えました。断食する人はしない人をどうみるでしょうか。断食もやらないくせ
にみだりに神の名前を口にするな、こういう批判は、彼らの口から容易に飛び出
すでしょう。だから人々はイエスに質問したのです。神の国を語るイエスに、な
ぜ断食しないのですかと。
それに対してイエスはこういうのです、「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は
断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない」。とても興味
深いひとことです。イエスは自分自身を花婿にたとえたのです。そしてイエスの
周りに集う弟子たちを婚礼に招かれた客にたとえたのです。結婚式の披露宴です。
そんなときだれも断食しません。花婿イエスを迎えて、今はまさしく喜びの宴た
けなわなのだというわけです。神の子イエス、救い主イエスがこの世にやってき
た。人々に神の国を語り、さまざまなわざを顕して神の国が今ここに示された。
神の国が近づいた、だから今は喜びのときなのだ。断食のときではない、という
のです。これまでとは様相が大きくがらっと変わったのです。イエスの到来によ
って時代が動き始めたのです。新しいことが始まろうとしているのです。
布ぎれと革袋のたとえ
イエスのたとえは、花婿と婚宴の話題から突如としてまったく別のたとえへと
切り替わります。「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを
当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破
れはいっそうひどくなる」。そしてもうひとつ、「だれも、新しいぶどう酒を古
い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶど
う酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」。こ
のふたつは同じメッセージを含んでいるのはなんとなくわかるかと思います。け
れども花婿と婚宴のたとえと布ぎれや革袋のたとえは、いったいどういうふうに
つながっていくのでしょうか。聖書というのはいろいろな記録の断編を寄せ集め
て編集したという特別な書物です。ですからまったく別のところで語った事柄な
のに、それらをいっしょにくっつけてひとつの会話にしてあるということもある
ようです。ここもそうなのかなと思えてしまうほど、たとえ話が結びつかないよ
うに思えてしまいます。けれどもこれと同じ記事はマタイにもルカ福音書にもあ
って、いずれの場合もひとまとめに記録してあります。ですからばらばらの状況
で語ったことばとみなす必要はありません。関連は大いにあると考えてよいので
す。
織りたての新しい布ぎれを古着のつぎあてに使うとよけいに破れてしまうとい
うのは、裁縫をしない私にも想像できます。つぎあてした縫い目から古くなって
弱った生地がすぐにほころんでしまうでしょう。新しいぶどう酒は古いぶどう酒
に比べると発酵する力が強くて、古い革袋に入れていたのでは袋が裂けてしまう
というのは、当時のユダヤ人たちが日常生活で経験していたのでしょう。
新旧のせめぎ合い
新しい布と古着、新しいぶどう酒と古い革袋。古いものと新しいものの出会い、
古い教えと新しい教えのぶつかり合い。布とかワインだけの話ではありません。
こういう緊張関係は身の回りにいくらでもあります。古い考えと新しい考え、古
いやり方と新しいやり方、古い人間と新しい人間。人間の歴史は、いつの時代も
この出会いとせめぎあいを繰り返してきています。モノでも教えや考え方でもそ
うですが、古いほうが良いものもあれば、古くなって廃れてしまうものもありま
す。言葉だってそうです。日本語というひとつの言語としては変わりません。変
わらないから日本人は日本語で話しあえます。その一方で日本語も、ところどこ
ろどんどん変化しています。
一般に、伝統の重みと大切さはいうまでもありません。伝統が長く受け継がれ
るのは、守り伝える価値があるからです。しかしながらそうした伝統も、そのま
まのかたちで受け継がれていくわけではありません。時代とともに常に変化しな
がら、その本質を残して次世代へと継承されていきます。古いものはそのままの
かたちで生き残るのは難しいということです。新しいぶどう酒を入れたら、古い
革袋は勢いに負けて破れてしまうのです。
古代の遺跡を展覧会などでみるとそのあまりの古さに感動する私たちですが、
展示作品ならばそこに新しいワインを注ぐわけではないのでよいのですが、「生
きる」ということには、いつも古さと新しさの出会いがあります。そしてそのと
き何かが起こるのです。
手垢と汚れ
古いものというのは、当然ながら汚れています。手垢がいっぱいついています。
これは家具や食器だけの話ではなくて、伝統とか教えにも当てはまります。形を
もたないのですが、伝統や教えもやはり手垢がついて汚れてしまいます。そして
宗教も、次第次第に手垢にまみれて、ほかっておくと埃を被ってしまうのです。
いつもきれいにピカピカに保つためにはそれなりの骨折りが必要です。大切な伝
統を守り続ける、なくしてはならない教えなのだからと、いっしょうけんめい努
力して純粋さを保とうとしても、それでもやはり手を抜いてしまいます。ずるい
ことを考えます。怠けます。そうするとすぐ汚れがついていきます。キリスト教
でもそうです。キリスト教では、人間のそうした不誠実な態度のことを罪と言い
ます。教会がいっしょうけんめいイエス・キリストの福音を伝えていても、必ず
どこかで間違いを犯します。これが人間の常です。教会という器が、福音を伝え
るための道具が罪ゆえに手垢で汚れていくのです。気がついてみたら器ばっかり
がりっぱで、中にはいっているはずの福音メッセージがそこにはなかったなどと
いうようなことになります。
埃を払う
ファリサイ派は、古くからの言い伝えや聖書の教えを頑なに守ることこそ正し
い道だと言いました。けれどもこの古くからの教えもいつのまにか汚れてしまっ
ていたのです。彼らの教えは、神様を正しく映しだしてはいなかったのです。神
様を映す鏡が垢と埃で薄汚れてしまったのです。宗教改革という歴史的出来事も
同じです。教会が国家よりも大きな権力を握ってしまった結果、教会は本来の働
きを忘れてしまったのです。罪の埃と汚れにまみれてしまったのです。新しい器
が必要となったのです。そのとき宗教改革が起こったのです。
このことはひとりひとり私たちの信仰にも当てはまります。「あなたはなぜ日
曜日ごとに教会に来るのですか」。ある婦人がそういう質問を受けたそうです。
その婦人はこう答えました、「だってね、家でも同じでしょ。掃除をしないでほ
ったらかしにするとすぐ埃が溜まるじゃない。私の心もそうなる。すぐに埃が積
もっちゃうから、教会に来て拭き掃除してもらうの」。
花婿イエス・キリストは新しいワインでした。ボジョレーヌーボだったという
ことです。断食しなさいとも言わずに、ただ神を信じなさいと言いました。救う
のは自分の力ではなく、神の恵みによるのだと語ったのです。このボジョレーヌー
ボは、ファリサイ派が用意していた古い革袋にはもう納まらなかったのです。新
しい革袋が用意されねばなりませんでした。「もはや苦しみに満ちた顔つきで断
食する必要はない。神の恵みによる救いをいっしょに喜ぼうではないか」。
救いをとどけてくださったイエス・キリストを花婿として迎えて、主を感謝し
つつ喜び讃えましょう。それこそが救い主イエス・キリストを受けいれる新しい
革袋なのです。