説教「通り過ぎるイエス」
マルコ6:45~52
聖霊降臨後第13主日(2015年8月23日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

 きょうの聖書の出来事はとてもよく知られています。イエス様が湖の水面を歩いて渡ってきて、それを見た弟子たちが「幽霊だ」と叫んだという奇跡のお話であります。そういえばこの話、いつも夏のこの時期に読むよな、などと夏の肝試しに出てくる怪談話のように受けとっている方もいらっしゃるかもしれません。

 子どもたちにも馴染み深い有名な出来事ですので、なんとか筋が通るように理解できないかと、いろんな解釈がなされてまいりました。原典のギリシャ語を調べながら注意深く読んで、実はこれは水の上なのではなくて、イエスは湖岸を歩いていたのだという説明も読んだことがあります。確かにそうした解釈のほうが私たちにとって理解しやすいのはいうまでもありません。

 きょうはこのテキストを前半と後半のふたつに分けて考えてみたいと思うのです。前半というのは、イエスが弟子たちを強いて舟に乗せて別行動をとったところから始まって、舟に乗った弟子たちが湖の上で逆風を受けてしまい、なかなか前へ進めなくなってしまったというところまでです。45節から48節の途中までということになります。そして残りが後半です。

 そうすると前半部分はごく普通のことですので、そのまま素直に読むことが出来ます。問題なのは後半部分です。48節にある次の言葉、「(イエスが)夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた」という一節です。

 前半部分に書かれているのは、イエスと弟子たちが別行動をとったということです。弟子たちはイエスから離れて、自分たちだけで湖を渡り、向こう岸へ行こうとしました。すると逆風という厳しい局面になってしまったのです。マルコの、そうしたなにげない描写なんですが、イエス様と離れ離れになった途端、逆風に見舞われた、という部分がクローズアップされるかもしれません。いつもイエス様といっしょにいれば、逆風に遭わなくてもすみますよ。そんな読み方をなさる人もいらっしゃることでしょう。けれどもよく注意して読むと、別行動をとらせたのはイエス御自身なのです。イエスが弟子たちを強いて舟に乗せたのです。弟子たちはイエスといっしょにいたくても、そうできなかった。イエスに従っていたにもかかわらず、逆風に見舞われた、そういうことです。

 信仰をもって生きていけば、あなたが逆風に見舞われることはありません。こんなメッセージができたら、説教者としてどんなにたやすいことでしょうか。イエスに従って生きたとしても逆風は起こります。旧約聖書のヨブ記は、私たちの人生にふりかかる数々の災難を、信仰者はどのようにみたらよいかについて、ほんとうに多くの示唆を与えてくれます。だれがみても神様の前に正しい人ヨブが、次から次へと災難を受けてしまいます。すると友だちが3人やってきて、みんな同じことを言います、「あなたは確かに正しい人かもしれないけれど、それでもそういうあなたにもいけないところがあったということなのです。だからこういう辛い目に遭うんです」。友だちはそういう調子でヨブを説得するのです。ヨブ記はとても古い古い物語ですが、今日でも、こういう調子の説明を至る所で聞きます。

 「私はどうしてこうも貧乏くじばかりひいてしまうのだろう。私も何かの信仰をもったらいくらかはいいことあるかしら」。そんな思いで、世にあるいろんな宗教の門を叩く人もいます。さきほども申し上げたように、「あなたが信仰をもって生きるなら、災難は消えてなくなり、幸福な人生を送ることが出来ます」、そんな説教ができたら、どんなにかやりやすいことでしょう。弟子たちが逆風に見舞われてうろたえた原因は、イエスが言うとおりに行動したからなのです。主イエスに従ったら災難にあった、そう言ってもいいぐらいです。信仰のあるなしとか、信仰が弱いからとかは、一切関係なく、逆風は私たちの人生行路にいつも吹き付けてくるのです。

 主イエス御自身もヨハネ福音書で次のように言っています、「あなたがたには世で苦難がある」。逆風が吹くよ、とこの言葉は教えているのです。逆風を受けるか受けないかではなく、逆風を受けたらそのときどうするか、逆風にどのように対処するか、それが私たちに問われているのです。その風をどうやって受け止めるか、あるいはよけるか。そうしたときに信仰が何かを示してくれます。そのとき信仰が指し示してくれることというのは、これというひとつの道だけではなくて、その人その人によってまったく異なっています。

 ヨハネ福音書の先ほどの言葉に続いて、イエス様が語った言葉はこうです、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。イエス様のとても頼もしい言葉です。「わたしは既に世に勝っている」、この主イエスの言葉を自分のものにする、自分に語られている言葉としてこれを聞く、それが信仰的に受け止めるということです。

 さてもう一度テキストに戻りましょう。逆風を受けて弟子たちが漕ぎ悩んでいるところへ、イエスがやってくるのです。マルコはそのことを告げているのです。それが「湖の上を歩いて」という表現になっています。そしてとてもおもしろいことに、そのときイエスは「そばを通り過ぎようとされた」のです。漕ぎ悩んでいる弟子たちを助けにやってきたとは書いてありません。ただ通り過ぎようとしただけなのです。「どうしたんだ、大丈夫かい?」というような展開ならば、ストーリーとしてきれいに仕上がるのですが、全然そうではない。主イエスは通り過ぎようとされたのです。いったいこれは何だろうということになります。

 そのときの弟子たちの反応ですが、それを見て幽霊だと思ったのです。大声を出したとあるのでさぞかしびっくりしたのでしょう。幽霊だと思った、裏を返せば、そこを通り過ぎようとしているのがイエスだとは気づかなかったということです。逆風にあって漕ぎ悩んでいるという大変なときだったのですが、イエスのことはまったく頭になかったのです。イエスの弟子であるのにわからなかった。先生と慕っていたにもかかわらずイエスに気づかなかった。イエスの言葉を信じて生きてきたにもかかわらず、逆風の中でそれを思い出すことができなかった。これが弟子たちが示した姿です。「弟子たちが示してくれた姿」と私は申し上げたいと思います。イエスを信じているというのに、逆風にあうとうろたえてしまう、あるいはうろたえはしなくても、考えられる限りの想定を自分の頭の中であれこれ考えたりしてみたりして悩みます。そこには信仰者である自分がまったく消えてしまっているのです。自分には信仰がある、神様から救いをいただいていることを忘れているのです。もっとイエスにすがっていいはずです。聖書のみことばに向き合い、主が今何を私に語りかけてくれるだろうかと思い巡らしたり、祈ったりしながら、神様の力をもっといただいていいはずなのです。信仰の力、特別な賜物が置き去りになってしまっている。そのような私たちの姿こそ、舟の中でうろたえる弟子たちの姿なのです。

 このあとイエスは弟子たちに言葉をかけます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」、この三つの言葉です。最初の「安心しなさい」は、さきほどのヨハネ福音書の言葉、「勇気を出しなさい」とも重なりますが、今ここで注目したいのは、他のふたつの言葉です。「わたしだ」、ごく単純な一言ですが、これは神学的には非常に重要な意味をもっています。わたしだ、と翻訳されている聖書ギリシャ語の言葉はエゴー・エイミと言いますが、これはモーセが柴の燃える中で聞いた神の言葉です。すなわち神学的には、これは神様が顕現したことを示す言葉です。また詳しくはお話しませんが、ヨハネ福音書では繰り返してこれが出ています。そしてエゴー・エイミを語るのはイエス自身です。

 もうひとつの言葉、「恐れることはない」、これも神の顕現を表す言葉として聖書に繰り返し出てきます。旧約聖書にもいくつかありますが、よく知られているのはイエス誕生の場面に出てくる天使ガブリエルの言葉でしょう。ガブリエルはマリアに向かって言いました、「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」。神は「恐れることはない」という言葉でこの世に顕れ出でるのです。

 もうひとつあります。イエス様は通り過ぎようとされたのですが、実はこれも旧約聖書になんどか出てきます。神様が顕れるとき、神は通り過ぎるのです。通り過ぎるイエスというのは、神がそこに活きて働いておられることを示しているのです。

 最後の52節でマルコはお話を次のように締めくくりました。「心が鈍くなっていたからである」。私たち心が鈍くならないようにしたいのです。毎日の暮らしの中で、ことに逆風の中で、主イエスはきっと何度も私たちのところを通り過ぎておられるのです。そこに主はいつも共にいて声をかけてくださるのです。ぜひともそれに気づいて、今週を生きる力としましょう。「わたしは既に世に勝っている」という確信の言葉を自分のものとしましょう。