説教「ことばが救う」
マルコ7:31~37
聖霊降臨後第16主日(2015年9月13日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

 プロジェクト3・11
 東教区では今、プロジェクト3・11という名前で、東日本大震災の被災地のための救援活動を続けています。2011年3月に震災が起こり、以後日本福音ルーテル教会は3年間救援活動を続け、2014年3月にその働きを終了しました。組織的な救援活動は終了したのだけれども、そのあとしばらくは被災した人々に寄り添い、祈り続けていきたいというのが日本福音ルーテル教会の宣教姿勢でした。その働きを東教区は託されまして、以後も皆さんにさまざまな機会を通して、仙台や福島の方々とのつながりと祈りを呼びかけています。それがプロジェクト3・11です。

 8月の終わりに気仙沼の前浜地区センター訪問が企画されたので、私は参加することにしました。前浜地区センターというのは、ルーテル教会が海外の教会の協力を得ながら支援して建設できたいわば公民館です。金曜日の夕方に到着して翌日土曜日お昼までという短い一泊の旅行でしたが、この地区センターで地元の方々といっしょに食事しながら、たくさんのお話を聞かせていただきました。

 生の声
 4年経過すると、もう地震と津波の爪痕はほとんどありませんでした。道路を走っていると、ここまで津波が到達しましたという標識があり、それを横目に見ながらそのときのことを思い浮かべることはできますが、地域はすっかりきれいに整い造成され、次の建物が建つのを待っているという感じです。唯一、例の南三陸の町役場の防災対策庁舎の鉄筋の骨組みだけが、そのままでした。すっかり様変わりした風景だったのですが、被災した人々の心からそれが消えることはありません。津波が襲ったときの生々しい体験談もいろいろ伺いましたが、それよりも私の心に残ったのは、彼らの過去の体験ではなくて、これからの前浜地区をどうするかという未来を心配する声でした。県は、津波をせき止めるための防潮堤を建設することを計画しているのですが、私たちがお話した地区センターの人たちはそんなもの要らないと反対運動をしているのです。そんなことをしたら自然が破壊されてしまうと心配しているのです。地元の人たちのこういった声は、直接でないとなかなか聴くことはできません。これこそ地域の人々の生の声だなと思いました。彼らは決して大きな声で興奮して話したわけではありません。むしろとても穏やかでした。けれども真剣な気持ちがとてもよく伝わってきたのです。私に何かそのお手伝いができるというわけではないのですが、直接に生の声を聴くということ、訴えに耳を傾けるということ、そこから事柄が動いていきます。そしてそれは、ことばから始まるのです。ことばを人に伝えて、それを理解する人が出てくるところから始まっていくのです。逆にそれがなければ、なにも起こらないという気づきが与えられたのです。

 コミュニケーション回復
 ガリラヤ湖へやってきたイエスは、耳が聞こえずうまくお話できない人と出会います。出会ったというか、イエスにこの人の病気を癒してもらいたいと思って、仲間がその人を連れてきたのです。イエスは、まじないのようなことをして、「エッファタ」という言葉をかけます。するとこの人が耳が聞こえておしゃべりできるようになった。そういう奇跡のお話がきょうの福音書です。

 エッファタという言葉だけ、聖書が書かれたギリシャ語ではなくて、イエスがしゃべった元々の言語アラム語で記されています。開けという意味であると解説してくれていますが、意味のわからない言葉を聞くと、それだけでなんだかおまじないのような気がしてしまいます。けれどもこのエッファタという言葉におまじないの力があったのかどうかが、マルコがここで伝えたかったことではありません。マルコが最も伝えたかったのは、イエスによってこの人が言葉を交わすことができるようになったこと、コミュニケーションをとることができるようになったということです。コミュニケーションでも会話でもどっちでもいいのですが、意思の疎通というのは誰かが語り、誰かがそれを聞くことです。けれどもそれだけではコミュニケーションは成立しません。聞いたメッセージを理解しなければ、コミュニケーションは途絶えてしまいます。話す、聞く、わかる。この三つがうまくつながっていったとき、人と人とのコミュニケーションがうまくいきます。この人はコミュニケーションの能力を失っていたのです。そしてイエスはそれを回復したのです。

 コミュニケーションから始まる
 話す、聞く、わかる。コミュニケーションには、この三つどれも欠かせないのですが、聴くことの大切さが最近はよく言われます。おそらくそれは話すこと以上に難しいと、私たちが気づき始めたからではないでしょうか。なぜなら聴く人は、耳に入ってきた言葉の音声を受けとるだけでなくて、聴いてそれをちゃんと理解しなければならないからです。コミュニケーションの働きの三つのうちの二つを、聴く人がやっているわけですから、聴く方が大変ということになります。コミュニケーションを成立させるのは、話す方ではなく聴く方なのです。

 言葉を交わすというのは、普段私たちが何気なくやっていることです。大人どうし、大人と子ども、我が家では犬ともやってます。うちの犬は何も言いませんが、こっちがいっていることはすこしは分かるみたいなので、みんな一生懸命犬に向かって話しかけています。たとえ相手が犬でも猫でも、ワンともニャンともいわなくても、一応分かってくれていると思うから、飼い主は語りかけるのです。なんとかコミュニケーションはとれているので、ペットは可愛いのでしょう。コミュニケーションができることで、人は生きていけます。そしてここから何かが始まっていくのです。

 初めに言葉があった
 ヨハネ福音書は「初めに言があった」で始まります。言葉、ロゴスでこの世は成ったと言っているのです。すべての始まりは言葉なのです。ヨハネ福音書は、そのあと「言は神と共にあった。言は神であった」と続きます。私たちの言葉には神様のいのちが宿っている、生きているのです。私たちが語るなにげない言葉によって、神が動き働かれるのです。そのように考えたとき、イエスがひとりの聾唖者を回復させたというのは、この人を再び生き返らせた出来事といってもいいのです。言葉を交わし、人とコミュニケーションできるようになったというのは、単に人と楽しいおしゃべりができるというだけにとどまりません。それだけでもほんとうに大きな喜びですが、人が語る言葉によって神様が生きて力を発揮なさる、そしてその言葉によって、神様がことを動かして行かれるのです。名前はないですが、言葉を回復してもらったこの人は、そういういのちへと招き入れられたのです。

 「光あれ」。創世記に描かれている天地創造の出来事も神の言葉で始まりました。言葉でこの世が創られたのです。毎月第1木曜日の集会で、徳善先生がお書きになった岩波新書「マルティン・ルター」を読んでいます。この本がユニークなのは、マルティン・ルターの生涯を「ことば」でまとめたという点にあると思います。目次をみると、「ことばに生きる」「ことばとの出会い」、「ことばが動き始める」、「ことばが前進する」、「ことばが広がる」、「ことばを受けとめる」、そして本の副題が「ことばに生きた改革者」となっています。神様がルターという人を用いて、この人に「ことば」を語らせて宗教改革が起こったのです。そして世界の歴史が大きく変わったのです。言葉が歴史を動かしたのです。

 前浜地区センターのことを、彼らは別名コミュニティセンターと呼びます。このセンターを建てた意味はほんとうに大きいと思います。地域の人々がここに集まって、コミュニケーションをとることができるようになったからです。お互いに言葉を交わして、これからをどうするかを話しあうための場となったからです。このセンターでも「ことば」が動き、「ことば」が前進し、「ことば」が広がっているのです。

 私たちが語る言葉、なにげなく人と交わす言葉が社会を変えたり、歴史を動かしたりなどと考えると、そんなことあるはずがないと思うかも知れません。けれども、ひとつひとつの言葉を人々と交わしながら、それを積み上げていったときに、そこに何かが起こります。そして周りが動いていくのです。言葉の力、言葉にやどるいのちを無視することはできません。それだけに、自分が選んで語る言葉を丁寧にきちんと語ることの大切さを思わされるのです。言葉には力といのちがありますから、使い方を間違えると言葉は人を傷つけます。人を打ちのめす暴力にもなってしまうのです。

 みことばの力
 きょうのヤコブ書にこういう言葉がありました、「この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます」。とても力強い言葉です。ともすると崩れてしまう私たちの言葉です。私たちが語る言葉というのは、すぐにぼろが出てしまい、言うべきでないことを言ってしまったりするのです。そういう私たちをもう一度引き戻してくれるのが、聖書、神のことば、みことばなのです。みことばが、弱った私たちの魂を再び救ってくれるのです。きょうもこうして一緒にみことばに耳を傾けることができたことを共に喜び、感謝をしたいと思います。