説教「私たちの真ん中にあるもの」
マタイによる福音書 9章35~38節
聖霊降臨後第17主日(2021年9月19日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 宮本 新(日本ルーテル神学校)
おはようございます。ルーテル学院大学、日本ルーテル神学校の宮本新です。オンライン、Zoom越しではありますが、こうして神学校日曜礼拝として市ヶ谷教会でご奉仕できることに心より感謝しています。本日の講壇奉仕はあらかじめ「これからの宣教」を考えるような時にしたいと役員会からご要望をいただいていました。とても大切なテーマだと思いますし、このコロナ禍の‘〝今だからこそ〟なのかもしれません。教会もまた悩みの中にあります。かつてある教会で牧会をしていたころ、地域のことで教会も悩みをかかえ長い役員会での協議となりました。信徒の方たちも長時間のことでぐったりとした様子で、内心申し訳ないという気持ちにもなりました。ところがある役員の人がこういうことをおっしゃったのです。「今世の中がこんなに大変なことがあって、自分の周りもつらいことや苦しいこともあるなかで、教会もまた傷ついたり悩んだりすることは、自分は悪くないと思う。一緒に生きているっていうのはそういうことではないですか」とおっしゃるのです。なるほど、と私の心の中でも大事な軌道修正が起こったときでした。それは教会が何ができるか何ができないかではなくて、共にある姿を感じ取っておられたのだと思います。「これからの宣教」を考える一つの方向性になると思います。
しかしこれは私たちだけのことではありません。キリスト者がキリスト者であろうとし、教会が教会であろうとするときにいつもこの「これからの宣教」は考えられてきました。今朝の福音書はそのことを物語っています。キリスト教の事のはじまりにあったのは、主イエスの宣教でした。村や町を残らず回り、教え、宣べ伝え、病を癒された。この三つは後々の教会に確かな方向付けを与えてきました。実際、私たちルーテル教会は、伝道・教育・奉仕としてこれらを理解し、この三つで宣教の業になると受け止めてきました。
肝心なことは、そのはじめにあったのは私たちの宣教ではなく、イエスの宣教であると、マタイが伝えていることです。宣教を定義したり、机上で論じるためにこの福音書が書かれたわけではないようです。私たちの人生を信仰から見つめ直すなら一体どんなものなのか。どうやって座り込んでいたものが立ち上り、壁に阻まれた人がそれを乗り越えて、谷底にいるような人がどう這い上がってきたのか。福音書は宣教を論じたのではなく、宣教というものに出会った人たちの記憶を語り伝えています。この福音書の背後には、もっとも初期の信仰者の群れがありました。現在のシリア付近で、大変な困難に直面していたことがわかっています。詳細はいまだ不明ですが、でもわかっていることもあります。大海原にただよう小舟のような存在で、大きなうねりにみまわれます。さぞ、怖かっただろう、不安だっただろう、と私などは思います。そこで彼らは、もう後に戻ることもできないし、かといって前に進むこともできない。そういう経験であったようです。そこで第三の道を見出し、活路をひらきます。前にも進めない。後にも戻れない。かといって立ち尽くすわけにもいかない。そこで自分たちはイエスと共にあることを深く心に刻みます。そしてこのイエスを主としてイエスに従い、共に歩むことを自らの道とします。そこまできて、はっと気が付くのです。この人たちにとって、宣教とは自分たちが何かをすることの前に、まずイエスが村や町をまわり、出会ってくださったことが原点なのです。大事なことを伝え、教えてくださった。慰めたり励ましたりして、癒しをあたえてくださった。まずイエスとその宣教に出会った人たちなのです。これはとても大事なことではないでしょうか。私たちもまた同じであると思うからです。
キリスト者はあのイエスの宣教にあずかった人たち、神の深い憐れみにふれた人たちなのです。このことにもっと心を寄せたいと思うのです。なぜなら、私たちはいつも自分が主語で、信仰といえば、自分の信仰を見つめ頼りないと思うことがあります。宣教といえば、自分たちの計画やしたこと,、できなかったことばかりが気になります。それらはある場面で大事なことですが、「もっと大事なことがある」といわれているような気がします。私たちのなすこと思うこと、そのすべてを通して、私たちは出会うものがあるのです。主イエスの宣教であり、神の恵みのお働きについてです。マタイの教団にとって、「これからの宣教」とは、まず自分たちが宣教された記憶を刻み、何度でもこのイエスの宣教に教わり、励まされ、そして勇気づけられていく道筋を証しします。その真ん中にあるものをマタイは神の憐れみと捉えているのだと思います。
私たちをアスリートにたとえると、短距離競争を一人でしているものではないことがここからわかります。だれも真の宣教の創設者を名乗ることはなく、またその必要もありません。たとえれば駅伝やリレーの中間走者のようなものではないでしょうか。ある人は自覚的に「あとは、頼みましたよ」とバトンを渡され、しっかりと握りしめたという人もいらっしゃるかもしれません。あるいは、気が付けば、望むと望まざるとにかかわらず、成り行きであるかのように自分の手元にバトンがきていた、そういう思いを抱く人も教会にはいらっしゃいます。どちらも真実味があると思います。しかし肝心なのは、このバトンがどこから来て、どこへ向かっているかです。私たちはこれをみ言葉に聴きます。再び、それがマタイ福音書ならばこの主イエスの宣教が私たちの立ち戻るところとなります。
今朝の福音書からもう一つのことを考えて終わりたいと思います。神の憐れみについてです。ヨハネ福音書ならば神は愛でありますが、マタイでは神の愛にはずっと深い奥行きがあることに注目して「憐れみの神」について述べています。ところが、この神の憐れみという言葉を具体的に考えるとピンとこないのです。たとえば、隣の人に、あなたのことは大切ですよ、とか、愛しています、というと心通ずるものがあると思いますが、かりに「あなたのことを憐れんでいますよ」などといわれて愉快な気持ちになる人はいないでしょう。私たちは憐れみだけは受けたくないものだ、そう思うことがあるからです。イエスが群衆をご覧になってそのお心の真ん中におかれた神の憐れみと、私たちが思う憐れみとはどこかが違うのだと思うのです。この「どこか違う」を一生かけて、しかも一人ではなく「みんなで」出会い、分かち合っていく・・・。ひょっとするとマタイの描く宣教のビジョンとはそういうことだったのかもしれません。
クアレックという20世紀に活躍した画家がいます。随分前に友人から教えてもらい私の手元にはクリスマス絵本があるのですが大変ユニークな降誕画になっています。ひっそりとした森のなかの降誕画もあれば、ところかわって、夜の町の喧騒のなかや、荒涼とした砂漠といったさまざまな場面に赤子のイエスが描かれています。決して目立った画風ではありません。イエスはたしかにキャンバスで光としてなくてはならないものとして描かれています。
このクアレックという人は、ウクライナの難民の子として遠くカナダに移住、貧しい家庭で育ち、農作業のかたわら絵の勉強をした人です。この人の描いたイエスは平凡な人々の生活風景のなかに溶け込んでいます。ホームレスの人たちが配給を待つ長蛇の列のなかにもひっそりと描かれたり、酷寒の地で労働者達が木を切る風景のなかにも赤子のイエスが描かれています。その絵は難民の子として生まれ、貧農の生活を経験し、世界中を旅しながら生涯を終えたクアレックの人生の風景画にもなっています。そこに小さなイエスが描かれているのです。あたかもそれは、私はあなたがたを決してほうっておくことはない、そういって独り子を賜わった神さまのお心をまっすぐにに受け止めた信仰画のように私には思えるのです。
そして神の憐れみがなんであるのか、ほんの少しですが分かったように思います。憐れみは、英語の聖書だとコンパッションcompassionです。目からうろこではないですか! コンは「共に」で、パッションは「苦しみ」という意味ですから、「共に苦しむこと」「共感共苦すること」が神の憐れみの内容になります。一緒にいてくださること。ただそれだけです。でも苦しんでいる人にはそれが必要なのです。イエスが何を福音として伝え、教え、そしてどんな風に病をいやされたのか、その詳細を私たちは知りません。けれども、わかっていることがあります。深い憐れみを村や町に届けられたのです。だれ一人漏れることがないように。どの人生にも、どんな境遇にも、くまなく、漏れることなく、神の深い深い憐れみがあることをイエスは知ってほしいのです。これは昔話でしょうか。私にはそうは思えません。私たちにも病があります。傷ついたり衰えたり、そして死があります。悲しむことがあります。苦しむこと、腹が立って仕方がないこと、どうしようもないこともあります。でも、本当に、ホントウにイタマシイことは、この私という存在に触れてくれるものも、響いてくれるものも、なにもない、だれもいない、と感じることがあることです。ほんの少しでもいい、一瞬でもいい、この痛みに触れて響いてくれるものがあるならば、この私と共にいてくれるならば、今日という日も生きていける。明日という日を迎えてもいいと、そう思えることがあるのです。神の憐れみは、深い深いいのちの糧だと思うのです。
私たちの実際の毎日は、私たちの真ん中にあることなど忘れてしまうほどいろんなことがあります。群衆のように打ちひしがれることもあります。コンパッションも憐れみも浮ついた言葉のように聞こえることもあるでしょう。それでも、この今日という日があのイエスの深い憐れみに触れていることを思い起こしたいのです。すべては私たちがなしていることであると同時に、すべてが私たちを超えた働きのうちにおかれているのです。このみ言葉が教えているのは、私たちがどんなに限界があり、欠けや弱さがあっても、それがすべてではないということ、終わりではないということを伝えています。・・もし私たちが道を失い、聞くことも信じることもなくなったら、再びイエスの福音に耳を傾ける、もう奉仕することも、共にいることにも疲れたら、もう一度あの方の深い憐れみに触れ、その癒しの力を希望とする。そうしてきたのは、二千年前のマタイのことであり、私たち一人一人の歩みにともなう福音だと思うのです。イエスに学び、懐深くにこの神の憐れみをいだいてゆきたいと思います。この共感共苦の神の憐れみに出会ったというなら分かち合いたいと思います。そして今週も、こうして心から互いに言葉をかけて祝福して、新しい一週を歩み出したいと思います。
主があなたと共におられるように。アーメン。