説教「人目につかぬ大きな奇跡」
イザヤ書 62章1~5節
コリントの信徒への手紙一 12章1~11節
ヨハネによる福音書 2章1~11節
顕現後第2主日(2022年1月16日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹
2022年1月第3週目の主日の福音書はヨハネ福音書からです。ヨハネ福音書は他の三つの福音書と少し趣が違っていて独特な記述内容となっています。イエスにまつわる出来事で、ヨハネ福音書にしか書いてないというのもたくさんあります。きょうのカナの婚礼のお話もヨハネ福音書だけに書かれています。三年に一度ヨハネ福音書を読むときにのみ、日曜日の礼拝でお目にかかります。
カナという町はイエスが育ったナザレの町に近く、同じガリラヤ地方にあります。そこであった結婚式にまつわるエピソードがきょうの福音書です。誰の結婚式かは書いてないのでわかりませんが、結婚式なので華やかなイメージのエピソードかと思いきや全然そうではなくて、ここに出ているのは結婚式披露宴の表舞台の話ではなく、裏方で起きてしまったドタバタ劇です。披露宴用のワインがなくなってしまい、大騒ぎになったというのが事の発端でした。舞台裏ではみんな目をつり上げててんやわんやです。母マリアに対するイエスの言葉もなんだかよそよそしく、意味不明なことを言っています。
「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」。このイエスの一言はいったいなんでしょうか。
興味深いことにイエスの母の名前「マリア」は、ヨハネ福音書では一度も登場しません。マリアという名前はベタニアのマリアとマグダラのマリアが登場するだけで、イエスの母マリアの名前はないのです。ヨハネがマリアという名前を用いるのを敢えて避けているかのようです。もしそうだとしたら、そこには福音書記者ヨハネ独自の考え、神学的な見方というのがあると考えることもできるわけです。
カナの婚礼がいつごろのことなのかというと、ここには「三日目」とあります。この記述に従うならば、イエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けて三日目ということになります。その間にイエスは弟子を何人か作り、彼らを引き連れてその足でカナの婚礼会場へと向かいました。ですから大雑把に言って、洗礼を受けて三日目ということですから、イエスが宣教活動を開始してまだ間もないときです。ですからここで起こった奇跡のことを「最初のしるし」とヨハネは記録したのです。
宣教を開始してまだ三日ですから、エンジンがかかってまだ間もないわけで、普通は徐々に動き始めると思うわけですが、イエスにあってはそうではありませんでした。イエスのうちに起こった内的変化はとても大きくて、イエスの意識とモティベーションははっきり切り替わったのです。ヨルダン川で洗礼を受けたときからイエスは変わったのです。鳩のような聖霊が降り霊的に変化したのてす。そのときからイエスは、マリアとヨセフの息子から、神の国を宣べ伝える宣教者に変わったのです。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」。この言葉のよそよそしさ、そして母マリアのリクエストをはねつける言い方の真意は、そこから読み解くと少し判ってきます。「女よ」と訳してある聖書もあります。こっちのほうがよりギリシャ語本来の単語を正確に訳しているでしょう。ユダヤ社会で母親のことをそのように呼ぶという話ではありません。事実としてこのような言い方はとてもよそよそしく、誰が聞いても人を突き放しているように聞こえます。この言葉の背景にあるのがイエスのうちに起こった霊的変化です。イエスに聖霊が降って、「私は神から遣わされた神の子イエス」という自覚ができたのです。
別の言い方をするならば、マリアとヨセフの息子というアイデンティティから、神の子イエス・キリストというアイデンティティに切り替わったのです。ヨハネがマリアという名前を自分の福音書で使わなかったわけは、そのあたりにあるのかもしれません。
このように見ていくと、「わたしの時はまだ来ていません」の「わたしの時」がどういう時なのかが見えてきます。それは神の子イエス・キリストとして成し遂げるべき使命、自分のミッションを果たすときのことであり、すなわちイエス自身の死のときであり、十字架のとき、そして復活のときこそ「わたしの時」だと言えます。ヨハネ福音書ではもうすでにこんなに早い段階から十字架が見えているということなのです。けれども福音書記者ヨハネにしてみればそれが自然なのです。なぜならヨハネはこのイエスの時を栄光の出来事と見ているからです。11節でこう記しています、「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」。カナの婚礼での奇跡は、栄光へと向かうイエスの最初のしるしだったのです。
はねつけるようなイエスの言葉ですが、それを言われた母マリアについて、聖書はこう記しています。「しかし、母は召し使いたちに、『この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください』と言った」。確かに母マリアはイエスから拒絶されたにもかかわらず、「しかし」なのです。「この人の言うとおりにしなさい」と言って召し使いたちに指示をするのです。母マリアとイエスの関係も、一人の女性と救い主イエスの関係へと置き換わっているのです。そこから最初のしるしが起きるのです。
水瓶の水がワインに変わるという奇跡、この驚きの奇跡に気づいたのはいったい誰だったのかを考えてみましょう。これは婚礼披露宴の舞台裏で起こった奇跡です。気づいた人は、実はごく一部の人だったということに是非とも目を留めたいと思うのです。9節にこうあります、「 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかった」。召使いは知っていたけれど、世話役は知らなかったのです。奇跡に気づいたのは一部の人たちだけだったのです。ワインがなくなりかけていたけれど、披露宴会場の人たちは相も変わらず、喜んで杯を酌み交わしていたのです。
奇跡とはそういうものだということを、私たちはここから学びたいと思います。大多数の人はそこで奇跡が起きたということに気づかないのです。気づけない、それが奇跡というものです。カナの婚宴に出席していた人たちのように、いつもと変わらず途切れることなく宴会は続いていると思い込んでいる、日々の日常のくらしは昨日もきょうも途切れることなく続いていると思い込んでいるのです。ところがこの世界のどこかで、大多数の人々が気づかないなかで、あるいは誰一人気づかないうちに、神様の奇跡は起きているのです。
もうしばらくして3月になると、わたしたちはイエスの十字架を見上げていくことになりますが、イエスの時のクライマックスは十字架です。ヨハネいわく、これが栄光の時です。主イエスの十字架が栄光の時と言えるのはヨハネだけでしょう。他の福音書記者マタイ、マルコ、ルカにはそういう言い方は見あたりません。十字架を栄光の時とみるヨハネからすれば、カナの婚宴の奇跡は栄光の始まりでした。栄光のドラマの幕が切って落とされたのです。そしてイエスの奇跡はクライマックスの十字架まで続くのです。いや、十字架の向こうに起こる復活までへと続くのです。
そうです。十字架は栄光の出来事であり、十字架は奇跡の出来事なのです。イエスの十字架に人々が見たのは、一人の受刑者の残酷な死だけでした。人々の目にはそれしか見えなかったのです。弟子たちさえもそれしか見えませんでした。
けれどもこの十字架こそが栄光であり、最大の奇跡だったのです。罪の贖いという救いの奇跡がそこで起こったのです。そのことをヨハネは福音書で呼びかけたのです。十字架が栄光であり奇跡だと、ゴルゴダの丘で立ち尽くした人たちのいったい誰が気づけたでしょうか。その場には誰一人いなかったことでしょう。
それから三日経って先ず気づいたのがマグダラのマリアはじめイエスの弟子たちでした。復活を通して十字架を振り返り、ようやく十字架の奇跡に気づいたのです。その次に気づいたのがパウロです。パウロが手紙にそのことをはっきりと書きました。パウロは言いました、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です」。そしてパウロの言葉によって、とうとう私たちも十字架の奇跡に気づくことができたのです。イエス・キリストを主と信じて仰ぐ私たちは、十字架の奇跡に気づいた一人一人なのです。