説教「復活を喜ぶ二人のマリア」
使徒言行録 10章34~43節
コロサイ書 3章1~4節
マタイ福音書 28章1~10節
主の復活主日(2023年4月9日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

安息日が終わって新しい一週間が始まる日の未明、二人のマリアは、イエスが葬られた墓へと向かいました。この二人は、イエスが十字架に架けられたときもイエスから離れることなく、他の婦人たちとともに遠くから見守っていました。少し前の27章に「大勢の夫人たちが遠くから見守っていた」とありますが、そこにマグダラのマリアとヤコブとヨセフの母マリアの名前が出てきます。では12人の男の弟子たちはどうかというと、身の危険を感じてどこかへ逃げ去ったようです。誰一人名前は出ていません。

十字架から下ろされたイエスの遺体を引き取ったのはアリマタヤのヨセフでした。この人もまたイエスを信じた一人だったようです。彼は財力があったので、イエスのために墓地を用意し、埋葬の手配をとったようです。聖書には書いてないのですが、おそらくこのとき、二人のマリアはアリマタヤのヨセフに協力をしてイエスの埋葬のお世話をいろいろとしたことでしょう。

「墓を見に行った」としか書いてありませんが、もう少し言葉を付け足すと二人のマリアは、実際にはイエスに会いに行ったのでしょう。岩穴のなかでイエスが眠っているわけですから、たとえ顔を見ることができなくてもそばに行きたかったのだと思います。亡くなった方のそばにいたい、そうした気持ちは人とお別れするときに私たちも抱くからです。

けれどももうひとつ考えられるのは、「私は苦しみを受けたあと三日後に復活する」とイエスが言ったことを二人のマリアはちゃんとと覚えていて、半信半疑ではあったものの、その言葉を頼りに「ひょっとして」と思って様子を見に行ったのかもしれません。

ただ、そこにもはやイエスはいませんでした。なぜか墓の中は空っぽだったのです。その代わり天使が現れて彼女たちに語りかけました。「恐れることはない。」番兵もそうでしたが、二人のマリアも恐れを抱いたようです。ここでの恐れとは突如として地震が起こり、天使が目の前に現れたという驚きを伴った恐れです。私たちも、なにか自分自身の存在を脅かすような得体の知れない力が自分に迫ってきたとき、恐れが頭をよぎって心が縛り付けられます。恐れは、私たちが最も避けて通りたい感情です。恐れは死を予感させるのです。

けれどもここで二人のマリアは勘違いをしていました。「恐れることはない、」そうなのです。恐れることは何もなかったのです。そして天使の次の一言は、すべてを一変させました。「十字架に付けられたイエスを探しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」彼らがここで感じた恐れ、それは死を予感させるものではなかったのです。むしろ新しいいのちの出現を予感させたのです。

イエスが十字架の上で息絶えたことですべてが終わった、だれもがそう受け止めざるを得ませんでした。いったいここからこのあと何が新しく生まれ出てくるものでしょう。あの悲劇はすべてを閉ざしたのです。すべてを消し去り、すべてを暗闇に葬ったのです。

十字架の前に呆然と立ち尽くしたときの彼らの絶望と諦めを、今、天使のお告げはすべて打ち砕いていくのです。閉ざされた未来を開き、いのちをつなぎ、希望を輝かせたのです。

福音はここから聞こえ始めます。十字架ですべてが終わった。死は生けるものすべてを終了させ、暗闇の中へと消し去る。間違いなく訪れる死、恐れの根源として待ち構えている死を、イエス復活の事件は覆したのです。死ですべてが終わると誰もが決め込んでいる事実が、そうではないのだと高らかに告げ知らせたのです。死はいのちの終わりではなく、私たちのいのちの一部なのだということが明らかにされたのです。わたしたちのいのちは神のうちにあって、死をもそのなかに取り込んでいるのです。

天使のメッセージを聞いて二人のマリアは「恐れながらも大いに喜んだ」とあります。この時点ではまだ復活のイエスと出会ってはいないのですが、喜びが一足早く届けられました。「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」この福音によって、二人は喜びを先取りすることができたのです。彼らが実際に復活したイエスと出会ったのはそのあとだったのです。

このことは私たちにもそのままあてはまります。私たちに福音を届けてくれたのは聖書の言葉です。「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」二人のマリアがそうしたように、この同じ言葉を、きょう私たちも聖書から受けとったのです。

死んだいのちが再びよみがえる。こんな突拍子もない話を信じることが私たちはできたのです。なぜこのようなことを素直に信じることができるのか、そのことを少し考えてみたいと思います。こんな無茶な話を初めて聞いて信じられる人などまずいないでしょう。あらためて考えてみると、どうして信じられるのかとても不思議な気がします。

なぜイエス様の復活を受け入れることができるのでしょう。第一に、神を信じているからです。第二に、その神のメッセージが聖書に書いてあると信じているからです。聖書を神の言葉として受け入れているからです。そして第三に、聖書にイエス・キリストの復活が証されているからです。これら三つを積み重ねることで、イエス・キリストの復活を信じることへと私たちは導かれているのです。

けれどもそれだけではありません。私にとっては実はこれが最も大きいのですが、イエス復活を信じられる最大の理由、それは聖書に書かれたイエスという人のうちに神を見ることができるからです。聖書をよく読み、イエスのことをもっと深く知っていくと、イエスの生き方、そしてイエスの言葉から神の愛がはっきりと伝わってくるからです。私はこれが一番大きいと思います。なぜ私たちは復活を信じることができるのか、それはイエスの生涯、イエスの教え、為したわざ、聖書に記録されたそのひとつひとつが、神様がどういうお方かを、私たちの日常レベルで示してくれたからです。インマヌエルの神様のことを、共におられる神様のことを主が伝えてくれた。だから私たちは主イエスの復活を信じることができるのです。復活の出来事を描写した福音書のストーリー、きょうのマタイ福音書にある復活の記事、この部分だけがイエス復活を証しているわけではないのです。イエスの生涯がそれを物語っているのです。

毎年イースターの日曜日は、判で押したように福音書からイエスの復活の出来事を読むわけですが、復活は四つの福音書すべてに記録されています。けれども四つの福音書が復活をすべて同じ内容を伝えているわけではありません。それぞれ微妙な食い違いがあります。書き手が違うし、書いた場所も時代も異なるわけですから、むしろそれは当然のことでしょう。四人の福音書記者たちが強調したかった点も各々違いました。四つを見比べながらつぶさに調べて、イエス復活の真実を解明しようという研究もできるかもしれません。けれどもそれはあまり意味のないことです。なぜなら復活を科学的に証明することなどできないからです。イエス復活を受け入れるには、ただそれを信じる以外に方法はありません。その信仰を私たちに与えてくれたのが神であり、イエス・キリストなのです。そしてそれを伝えたのが聖書なのです。

人は根本的な問いをもっています。根本的というのは霊的な問いという意味です。「私は何のために生きているのか」、「どうしてこんな病気になったのか」、「苦しむことの意味は何なのか」、「自分は許されているのだろうか」、「死んだらどうなるのか」。これらはいずれも深く重たい霊的な問いです。こうした問いについて、そんなこと考えたってしょうがないからから私は気にしない。考えない。ただ毎日一生懸命生きる、そして楽しく過ごす。それがすべてだ。そう割り切る人もいるでしょう。けれどももう一方で、この問いを大切にして真剣に問うことをする人もいます。神様と真剣に向き合う人というのはそういう人たちです。私たちがそうです。

イエス・キリストの復活は、こうした私たちの霊的な問いに対して、ひとつのはっきりとした道筋を示してくれました。神と共にあるいのち、死をも飲み込む永遠の命。このいのちを私たちはいただいたのです。