説教「イエスの門をくぐる」
使徒言行録 2章42~47節
ペトロの手紙1 2章19~25節
ヨハネ福音書 10章1~10節
復活節第4主日(2023年4月30日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

きょうの福音書は羊と羊飼いを用いたイエスの比喩です。これはヨハネ福音書だけにあって他の福音書にはありません。そもそも羊は、日本ではそれほど馴染みある動物ではないのですが、なぜかこの比喩は私たちの記憶にしっかりとどまっています。私たちと主イエスの関係を羊と羊飼いに置き換えるととてもイメージしやすいからだと思います。私の頭にぱっと思い浮かぶのは、阿佐ヶ谷にあるむさしの教会のチャペル正面の大きなステンドグラスです。中央にイエス様がいてそれを取り囲むように羊たちが描かれています。イエスは右手で小羊を抱きかかえています。私たちが羊、そしてイエス様は私たちの羊飼い。牧歌的でとても愛らしいイメージは、主イエスが私たちにとってどういう存在なのかをとてもわかりやすく伝えてくれます。

そう言っておきながら、「わたしは良い羊飼いである」というイエス様の言葉はきょうの箇所にはなく、次の11節にあります。きょう私たちが聞いているのは「わたしは羊の門である」です。ですから10章には「私は羊の門である」というのと「私は良い羊飼いである」が続けて出てくるのです。きょうは「私は羊の門である」、このみことばからイエスと私たちの関係を聞き取っていきたいと思います。

主イエスがご自身を羊の門にたとえています。羊飼いはその門をくぐって、羊たちがいる囲いの中へと入っていきます。イエスの門を通らないで、それを避けて、柵を乗り越えて入ってくる羊飼いは盗人であり強盗だというわけです。6節をみると「イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話された」とあるので、門を通らないで柵を乗り越えてくる盗人というのはファリサイ派のことを暗に意味しています。

では囲いのなかにいる羊たちに会うために、イエスの門をちゃんと通って来る羊飼いが誰のことなのかというと、囲いの中にいる羊たちを神様のところへきちっと導く役割を担っている人ということになるので、今日にあてはめるならば、それはやはり教会につながる人々を牧する人ということになりますので、それはみことばを取り次ぐ説教者であり牧師ということになります。ですからここの部分は牧師に向けて語られていると言えます。

それに加えまして3節「羊はその声を聞き分ける」、4節「羊はその声を知っている」といったみことばもあるわけです。「その声」とは羊飼いの声ですので、それはみことばを取り次ぐ説教者の声です。羊はその声を知っている、その声を聞き分けるのです。自分たちの羊飼いなのですから知ってて当然と思われるかもしれませんが、説教者の立場からすれば、このメッセージは聞き流すことができません。なぜならば、羊たちが間違えてよそから聞こえてくる声についていかないようにしなければならないからです。みなさんがファリサイ派の声に聴き従うということはよもやないでしょうけれど、イエス・キリストの福音から逸脱した声というのは世にたくさんありますので、そうした声に引っ張られないように説教者は福音を正しく語らなければなりません。

聖書を正しく語るといっても、正しさの基準がひとつとは限りません。実際にはいろんな教え、いろんな教派があって、どれもが自分たちの教えが一番正しく聖書に忠実と思って説教しているわけです。教派の違いという程度ならいいのですが、異端的な教えもなかにはあったりします。そうした声に皆さんが聴き従うようになってしまうとしたら大変です。市ヶ谷教会は、ルーテル教会というマルティン・ルターの神学をベースとして建てられた教会です。ルターの教えが正しい聖書の教えだという立場です。ですから説教者も含めて、私たちはマルティン・ルターを羊飼いとして、その声を聞いているのです。

牧師である私も、ルターが教えた福音が正しいと受け止め、それをもとに皆さんの羊飼いとなって福音を届けているのです。ですから皆さんは、そういう福音を聞き分けているのです。いうなればイエス・キリストの福音を、羊飼いマルティン・ルターの声を通して、さらにまたそれを聞き分けた一人の牧師を身近な羊飼いとして、その声を聞き分けているのです。

「わたしは羊の門である。」そしてきょうの福音書にはないですが、「私は良い羊飼いである」がそのあとに続きます。さらに9節で繰り返し、「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」と続きます。羊飼いとしてのイエスではなく、門としてのイエスがきょう私たちの前にいます。イエスという門を通って、わたしたちは囲いのなかに入るのです。日本語にはちょうど入門という言葉がありますので、要はイエス入門ということになります。

「わたしは門である」、ですからこの門をくぐることはイエス入門です。そしてイエスはこう続けます、「わたしを通って入る者は救われる。」イエスを通って入門する、すなわちイエス入門を具体的な教会の事柄にあてはめるなら、イエス入門とは洗礼のことです。ルターは教会で聖書の教えを正しく伝えるために小教理問答を書きました。これに基づいて信仰教育をするのですが、そのなかに洗礼についての教えがあります。そこをみてみると次のように書いてあります。

「洗礼はそれを信じるすべての人に、神のことばと約束が告げているとおりに、罪の赦しをもたらし、死と悪魔から贖い出し、永遠の救いを与えるのだ。」

ルターはここで入門の洗礼についてはっきりこう言っています。「洗礼はそれを信じるすべての人に、永遠の救いを与える。」このルターのこの言葉は、きょうの福音書箇所「わたしを通って入る者は救われる」と一致するのです。イエスが門であり、その門を洗礼によってくぐった人は救われるのです。イエスが語り、そしてルターががっちりと受け継いだこの教えは、ルター派の教会で揺るぎないものとしてあります。

日本のキリスト教の歴史を語るうえで内村鑑三を抜きにすることはできません。無教会という名前の教派の創始者としても知られています。内村は、伝統的な教会が大切にしてきた恵みの手段を認めなかったのです。そういうこともあって内村鑑三の教会のことを無教会と呼んでいます。具体的にいうと彼は洗礼と聖餐を否定したのです。その代わりひたすら聖書を読むこと、聖書研究を重んじるという教えを徹底したのです。信仰は聖書を学ぶことで養われると内村は説いたのです。

その内村鑑三にはルツ子という愛娘がいました。ルツ子は19歳のときに重病を患い原因不明の高熱が六ヶ月続き、とうとう息を引き取るのですが、内村鑑三は娘が息を引き取る三時間前に彼女に洗礼を授けたのです。そしてそのとき母親もいっしょになって親子三人で聖餐式をしたのです。内村の伝記「内村鑑三伝」にはこんな描写があります。

「これはルツ子が連なった最初にして最後の聖餐式であった。彼女は細くなった手を伸ばして杯をとり、主の血を飲みほして後、死に瀕した顔に歓喜の色を浮かべ、「感謝、感謝とくりかえした。脈が絶えて40分後、突然「もう行きます」と言って最後の息を引き取った」

自分が否定してきた洗礼と聖餐を、愛娘のために救いの手段として受け入れたのです。内村はこの世の組織や制度を否定した人でした。それゆえ教会という組織も否定して無教会主義を貫いたわけですが、実は内村鑑三はルターを深く研究していました。そして1917年の宗教改革400年のとき内村はその記念大会で特別講演を行い、それに併せて「ルーテル記念号」と称して論文を書きました。そのひとつのタイトルは「ルーテルの為に弁ず」です。そのなかで内村はこんなことを書いています。「哲学の事は茲に言はずとして、宗教のことにおいて余輩はもともと独逸信者である、殊にルーテル信者である、ルーテル教会の信者ではない、ルーテル信者である、ルーテルを以て伝わりし信仰を懐く者である」。この言説からも内村鑑三がルターを受け入れていたことがわかります。ルターが大切にした救いの手段としての洗礼を娘のために行った理由も、ここから読めてくるのです。

「私は羊の門である」。今年のイースターに市ヶ谷教会では新たに3名の方たちが洗礼を受けて、この門をくぐりました。今回新たに教籍簿を買い足すことになりました。とても喜ばしいことです。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」イエスの門をくぐって豊かな命を受けとる方たちがこれからも数多く与えられることを願ってやみません。